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2024年06月06日

3月27日~29日に行われた日本生協連合会主催のピースアクションinオキナワ 第41回沖縄戦跡・基地めぐりに組合員5人を含む8人で参加しました。

  • 目標16:平和と公正をすべての人に

今回のテーマは【沖縄から学ぶ過去・現在・未来】で、次の3つを目的として開催されました。

  1. 巻住民をき込んだ地上戦の歴史と米軍専用施設の70.3%が集中する沖縄の現状を学びます。
  2. 現在の沖縄における諸問題や、これからの平和をめぐる課題について考えあう機会とします。
  3. 親子や次世代が平和をつなげよう意識をもつきっかけとします。

住民を巻き込む地上戦となった沖縄戦や基地問題について、フィールドワークを中心に学びました。

1日目は講演・懇親を中心とした全体会が行われ、2・3日目は【しっかり学ぼうコース】【ゆっくり学ぼうコース】に分かれフィールドワーク中心に各戦跡をめぐりました。

 

1日目:全体会

□学習講演会「沖縄戦・在沖米軍基地から平和を考える-フィールドワークに行く前に考えたいこと-」講師:琉球大学 教育学部 副学部長 山口剛史さん

沖縄戦・在沖米軍基地に関するクイズに回答しながら沖縄戦・米軍基地について解説を聞きました。大切なのは自分なりに考え、疑問を持つこと。現状を知ることだと学びました。

□講演「那覇市繁多川の住民が見た沖縄戦」講師:波平元維さん 南信乃介さん

講師の波平さんが体調不良で講演できなかったため、昨年行われた動画を視聴し、南さんの解説がありました。沖縄の住民が戦争に巻き込まれていく様子や壮絶な飢餓状態にあったこと、避難していたガマ(琉球石灰岩大地に点在する自然洞窟のこと)で住人が追い詰められてゆく様子を知ることができました。

□大学生からの報告 報告者:吉村珠季さん〈大学生協連Peace Now! Okinawa 実行委員〉

よりよい生活と平和を守る運動は不可分であるという想いのもと、社会への関心や平和へ対するとりくみなど、若者の傾向をデータをもとに報告がありました。平和へのとりくみは何をしていいのかわからない、と答える学生に対して、関わるきっかけが必要なのではないか?との問いかけがありました。

□参加者交流会

前後の参加者と講演の感想や今回のピースアクションで期待すること、またそれぞれの平和のとりくみなどを話し合いました。

【しっかり学ぼうコース】

2日目

□嘉数高台公園

嘉数高台は首里の軍司令本部を守るための、その一帯に第一防衛線として陣地を構えていたところです。そのため沖縄戦でもっとも激しい戦いが行われ、日米両軍に多くの死傷者が出ました。展望台付近からは米軍の普天間基地を見下すことができます。

階段の前には弾痕が残る塀もあった他、公園内にはトーチカや陣地壕などが残っており、その激戦の様子が伺えました。長い階段の先にある展望台は普天間基地を見渡せる場所でガイドさんの解説中もその声が聞こえないほどの戦闘機の爆音が絶えず聞こえていました。

□道の駅かでな

極東最大規模である嘉手納空軍基地を一望できる屋上展望場と学習展示室のある道の駅です。

嘉手納基地は嘉手納市の8割を占めるほど。戦闘機が昼夜問わずに飛行するため、事件・事故が絶えない上、更に爆音にもさらされています。

□チビチリガマ

もともとは糸数集落の指定壕でしたが、後に南風原陸軍病院の分室となりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、ガマ内は多数の負傷兵で埋め尽くされました。

波平の住人の避難場所でしたが、上陸した米軍がガマを包囲した後に、ガマの中で集団自決が行われ、140名中83名が亡くなりました。犠牲者の約6割が18歳以下の子どもだったそうです。入壕することはできませんでしたが、入口に多くの千羽鶴が幾束も奉納してありました。

□辺野古テント村・瀬嵩の浜

沖縄県名護市の辺野古漁港横に設置されたテントで、抗議活動を行っている場所で、瀬嵩の浜は名護市にある自然のビーチで辺野古の海が一望できます。

沖縄米兵少女暴行事件をきっかけに米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求運動が起こり、1997年には名護市辺野古付近への移設案が決まりました。浜のテントがある辺野古漁港からと、瀬嵩の浜から大浦湾の様子を見学しました。それぞれの位置から辺野古新基地建設現場を見ましたが、辺野古漁港からは埋め立てられている様子が伺えたものの、瀬嵩の浜からみる大浦湾は埋め立てられている様子は伺えませんでした。

3日目

□糸数壕(アブチラガマ)

沖縄本島南部にある自然洞窟です。長さは270メートルあります。沖縄戦時に糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となり、「ひめゆり学徒隊」が看護活動を行いました。

ガマの中は600名の以上の負傷兵で埋め尽くされたそうです。エリアごとに機能が分けられており、兵隊は安全な奥の方へ、住民は一番危険な入口付近に追いやられたそうです。壕の中は懐中電灯を使わずには歩けないほど真っ暗で高低差もかなりあり、岩場のため足元は不安定でした。そのような中でひめゆり学徒隊の女学生たちは懸命に看護活動を行いました。1945年5月南部への移動命令が出された時は1人で歩けない重症患者と糸数の住民が残されたとのことでした。

□平和の礎

糸満市の平和祈念公園内に設置されている慰霊碑です。

沖縄戦で亡くなった方々の名前が国籍・軍人・非軍人を問わず刻まれており、日本人は県別に名前が記されていました。太平洋・沖縄戦終結50周年を祈念して建設されたそうです。碑は放射線状に配置され、その中央には、『平和の火』(沖縄戦最初の米軍上陸地阿嘉島・広島市の「平和の灯」・長崎の「誓いの火」の合火)が灯されています。

□県立平和祈念資料館

2000年4月に糸満市の沖縄戦跡国定公園の平和記念公園内に開設された資料館です。

悲惨な沖縄戦の実相及び史的教訓を次世代に正しく継承するとともに平和創造のための学習、研究及び教育の拠点施設として恒久平和の樹立に寄与するために建設された資料館で、平和祈念公園の中に建設されています。

ゆっくり学ぼうコース 2日目

□嘉数台公園

実際に使用されたトーチカが残されていたり、砲撃の跡が残っている壁を見たり、実際に残っていないと場所も記憶も風化するというガイドさんの言葉が印象的でした。

□辺野古テント村

□瀬嵩の浜

□南風原文化センター 沖縄陸軍病院南風原壕群(20号壕)

沖縄戦から民族芸能まで南風原町の昔・今・未来を伝える資料館です。沖縄陸軍病院20号壕群を保存、公開して、平和学習が可能な施設となっています。南風原陸軍病院には約30の横穴壕が作られました。

現在も実際の壕を見られることは貴重なことだと思いましたし、実際に見ることができるからこそ、とても恐ろしく、実際は考えうる以上の惨状であったということが想像できました。

□飯あげの道

米軍の砲弾をかいくぐって、陸軍病院へ近くの集落で作られた食事や水を、動員された女子学生たちが運んだ道です。

3日目

□ひめゆりの塔

1945年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。

□ひめゆり平和祈念資料館

1989年6月23日、沖縄戦の体験と平和の尊さを伝えるため、ひめゆり同窓会によって設立されました。

展示の動画のお話の中で「生きていくことは当たり前ではない」「無知であることの怖さ」というワードがとても印象的でした。

 

□魂魄の塔・米須海岸

沖縄本島南部の糸満市米須にある慰霊碑・慰霊塔です。住民、軍人など、3万5千余りの遺骨が納められました。

 

ピースアクションinオキナワに参加して、いろいろな報道や資料などについても、それが真実であるか疑問をもつこと、沖縄戦はもちろん基地問題についても関心をもつことが大切だと感じました。

 

ピースアクションinオキナワ

https://peace.jccu.coop/okinawa/

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