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- 平和・国際交流
2019年10月14日
長崎平和の旅「つたえてください あしたへ・・・・・・」~被爆体験証言の地をめぐる旅~
組合員理事 小林節子
10月5日・6日、被爆体験証言の地をめぐる長崎平和の旅に24名が参加しました。原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さをまなび、平和の大切さや命の尊さに、あらためて向き合うことができました。
片島(かたしま)魚雷発射試験場跡は、佐世保や川棚の海軍工廠(こうしょう)で新規製造あるいは大修理した魚雷を納品する前に性能試験の発射を行う場所です。空気圧縮ポンプ室・魚雷発射場跡・探信儀領収試験場跡・観測所跡などを川棚町ガイドの案内で見学しました。川棚臨時魚雷艇訓練所跡では、特攻兵器『震洋(しんよう)』と『伏龍(ふくりゅう)』の訓練が行われ、この海から出陣した3511名が亡くなり、昭和42年『特攻殉国の碑』が建立されました。碑には戦没者の名が刻印されており、碑の上には震洋特攻艇攻撃を行ったフィリピンのコレヒドール島と沖縄の石がちりばめて彩りを添えています。
無窮洞(むきゅうどう)は旧宮村国民学校地下教室で、高等部の男子生徒がツルハシで掘り、女子が成形、下級生が運び出しを担当。「無窮」とは「極まりが無く無限」という意味。凝灰岩(ぎょうかいがん)をくりぬいた主洞は、幅5m奥行19mの大きさで、教壇を備えていました。副洞は幅3m奥行15mの大きさでした。
浦頭(うらがしら)引揚記念資料館へ。終戦に伴い佐世保引揚援護局があった浦頭には1,396,468人が上陸されました。引揚者の多くは、栄養失調や下痢・皮膚病、敗戦の失意と迫害のために疲労困憊の状況でした。上陸と同時に消毒のためDDTの散布を浴び、検疫後約7キロの山道を歩き、佐世保引揚援護局までたどり着き、引揚手続きを終えると衣服や日用品の支給を受け、2・3日後、南風﨑(はえさき)駅からそれぞれの故郷へ向かわれました。受け入れ側は「引き上げる人の身になれ、この援護」を合言葉に不眠不休で活動されました。佐世保市は世界恒久平和を願い、募金等から浦頭引揚記念平和公園を建設しました。
西海橋の近くにそそり立つコンクリート製の3本の塔『針尾送信所』を見学。太平洋戦争勃発の口火を切った真珠湾攻撃の暗唱文「ニイタカヤマノボレ1208」をここでも中継したと伝えられています。300mの正三角形の頂点に立つ136mの塔は、大正7年から4年間の歳月を費やし建設されました。ここから中国大陸や東京・広島方面、台湾や沖縄などの南太平洋へと情報が電信されました。
6日は長崎市内の証言の地をデザインルームえふで(証言集を編集)の舩津さんのガイドでフィールドワークしました。23集の表紙や16集の雨森恵美子さん・18集の河村信子さん証言三菱兵器住吉トンネル工場跡を見学しました。当時、日本有数の民間魚雷生産工場であった三菱大橋工場の疎開工場として、長崎東北郷の山中に6本のトンネルが掘削され、住吉トンネル工場として航空機搭載の九一式魚雷の部品を製造していました。トンネルは長さ300m、高さ3m、幅4.5mで内部は連絡用として各トンネルをつなぐ通路が設けられていました。原爆投下時、このトンネル工場では、三菱の工員をはじめ、各地からの動員学徒や挺身隊からなる約1,800人が魚雷部品の生産などに従事していました。また、トンネル工場の稼働と並行して掘削が続けられており、朝鮮人約800人から1,000人が従事していました。トンネルの外にいた者は、亡くなったり、全身に及ぶ火傷や重い傷を負いました。トンネルに居てかろうじて大きな被害を免れた者は、原爆を受けた直後からトンネルに避難してきた負傷者の応急手当をしたり、大橋工場の同僚の救援に行ったりしました。彼らは2~3日ほど、同僚の救援や集まった負傷者を病院へ搬送するため、救援列車まで運ぶ手伝いをした後、帰宅しました。
平和公園から浦上天主堂を望み、如己堂(にょこどう)(己の如く隣人をを愛せよ)へ向かいました。永井隆博士は浦上の人たちやカトリック教会の協力により建てられたこの二畳一間の部屋に二人の子どもと住み、白血病の療養をしながら多くの著名作品(長崎の鐘・この子を残して)が生まれました。その後、17集片岡進さん証言の山里国民学校へ。三階建ての校舎の南及び西側の三階部分が崩壊しまもなく発生した火災により、北側の一・二階を残して全焼しました。在校者32人のうち、生存者は4人でした。夏休み中の児童は、在籍1,581人中1,300人が自宅で亡くなりました。その後、山里救護所として治療が続けられましたが、亡くなる方が多く、荼毘の炎が何日も夜空を焦がしたそうです。
第16集田中咲子さん・第23集山口美代子さん証言の立山防空壕跡へ。長崎県防空本部は、県の防空施策の中心的役割を担っており、空襲警報が発令されると県知事ら要人が集まり、警備や救援・救護などの指揮、連絡手配に当たっていた場所で、壕内には知事室や警察部長室、防空監視隊本部などが配置されていました。原爆投下時、爆心地から約2.7キロ離れているため、爆心地の状況が把握できず、被害軽微としていましたが、情報が入るにつれて甚大な被害状況を国の防空総本部長官などに送りました。
お天気良くとても暑かったですが、皆さんとてもお元気で、新聞社やインク&ペーパーの取材インタビューにも快くご対応いただき、平和への熱い思いが伝わりました。積極的に学び、交流していただきありがとうございました。
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