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2019年05月07日

「第36回沖縄戦跡・基地めぐり」に参加しました

組合員理事 森尾 優子


3月27日~29日、日本生協連主催、『第36回沖縄戦跡・基地めぐり』に4名のお子さんを含む組合員とスタッフ、組合員理事など14名が参加しました。今年は私も参加した「知ることから始めようコース」と、主に親子が参加する「戦争体験を未来につなげようコース」に分かれて戦跡、基地、資料館などを見学。全国33の生協から220名が参加しました。


■一日目


全体会


朝、福岡空港を出発し沖縄空港に到着、那覇市にあるホテルで行われた全体会に参加しました。大人は沖縄平和ネットワークの瀬戸隆博さんより、沖縄の歴史・沖縄戦・沖縄の基地について学び、子どもたちは「沖縄について知ろう・考えよう」というテーマでグループワークをしました。その後、全員で「海よ、いのちよ」というDVDを鑑賞し、平良啓子さんより、「沖縄戦の体験を聞く~対馬丸事件~」をテーマにお話がありました。疎開の子どもたちを乗せた対馬丸は米軍の魚雷を受け沈没。犠牲になった学童は780人を超え、6歳以下の子どもを含めると千人余の幼い命が失われた、ということをお聞きし、実際にこの悲劇を体験された平良さんの言葉の重み、「命の尊さ、大切さ」をひしひしと感じました。




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■二日目


辺野古―瀬嵩の浜―道の駅かでな(嘉手納空軍基地)-嘉数高台(普天間基地)


バスに乗り、現地ガイドの大城さんの案内で辺野古(名護市)を訪れました。ここでは現地で反対運動を展開している山本さんより基地建設をめぐる状況をお聞きしました。この辺野古・大浦湾周辺の海域ではジュゴンをはじめとする絶滅危惧種の生物が多数確認され、基地の建設による環境破壊が懸念されています。また、地形を利用して燃料を運搬する大型タンカーなどの船舶が接岸できる護岸、弾薬搭載エリアが整備されるなど、普天間基地よりもさらに大きな危険を伴うとのこと。山本さんのことば一言一句が胸に刺さり、お話が終わったあと、参加者のみなさんは唯々無言で、美しい海と、建設予定地を警備する船を見つめておられました。




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対岸に位置する瀬嵩の浜からは、海上の建設予定を示すオレンジ色のバリアロープを挟んで、抗議をする小舟と警備船が対峙している様子が見え、景色の美しさとの違和感に胸が締めつけられる思いでした。


昼食後、嘉手納空軍基地(中頭郡嘉手納町)を一望できる『道の駅かでな』を訪れました。嘉手納飛行場とも言い、3,700mの滑走路2本を有した200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地で、面積においても日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍とのこと。基地周辺には多数の住宅が建ち並んでおり、離着陸時の飛行コースはこの民間地域の上空を通り離発着数も多いため、騒音、墜落、落下物など、多くの危険にさらされているという現実をお聞きしました。そして偶然ではありますが、この道の駅の屋上展望場にて、3機の軍用機が次々に爆音とともに離陸するのを目の当たりにし、周辺地域に与える影響について考えさせられる貴重な体験となりました。




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基地めぐりの最後は嘉数高台(宜野湾市)から見る普天間基地です。嘉数高台は沖縄戦で最も激しい戦いが行われた地で、戦闘開始からの16日間で日米両軍に多くの死傷者が出たほか、民間人にも多数の犠牲者が出たとのこと。世界平和を願って作られたという地球儀をイメージした展望台からは宜野湾周辺の景色が見渡せ、現在も米軍の前線基地となっている普天間基地を見ることができました。




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基地は宜野湾市の26%の面積を占め、ちょうど市の中央に位置するためにドーナツ状となり、基地を囲むように学校や商店、住宅が密集している状況にあります。2004年8月に普天間基地の米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学の位置も確認でき、ガイドの大城さんからその当時の事故の様子をうかがいました。そしてちょうど説明を受けているとき、眼下に見える基地の滑走路から2機のオスプレイが飛び立ち、展望台にいる私たちの頭上を通過して行ったのです。大きな音と、あまりの近さにショックを受けると同時に、市街地のど真ん中にあるこの基地が「世界一危険な飛行場」と言われる理由が一瞬で理解できました。普天間基地には常時約20機のオスプレイが配備されているとのこと。その姿も見ることができました。



■三日目


糸数壕(アブチラガマ)-平和の礎・県立平和祈念資料館



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「糸数壕アブチラガマ」(南城市)は、自然の鍾乳洞。沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされたと言います。精神を病んだ脳症患者、破傷風患者の「病室」や「軍医室」があったあたりには「ベッド」の跡が。暗闇を進むと、「便所」「空気孔」「カマド」があったことを示す看板があり、それぞれについてガイドさんより説明がありました。


当時「病棟」は衛生状態が非常に悪く、傷口から膿やウジがわいている負傷兵がほとんどだったとのこと。年頃のひめゆり学徒隊がこの虫を一匹ずつ取ったり、治療や手術の痛みで暴れる兵士を押さえつけていたなど、お聞きした壕の中での看護は想像を絶するものでした。


また、便などの汚物が入った桶を定期的に担いで外に捨てに行き、薄暗く滑りやすい壕の中で、疲労と空腹の極限状態にあったひめゆり学徒隊はそれを頭から被ってしまうことも多かったとのことです。



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さらに進むと日本軍の作戦会議場所や積み上げた石壁、そして命をつないだ水を溜める井戸が当時のまま残っており、最後に自然の陽の光がこぼれる出口から外に出ました。この見学の途中、ガイドさんからのすすめがあり、全員で懐中電灯を消すことで壕の中の実際の暗闇を実感したり、沈黙の中、滴り落ちる水の音をじっと聞きながら黙祷を捧げるなど、大変貴重な体験をさせていただきました。


次に訪れた沖縄県平和祈念資料館は2000年4月、先に建てられた「平和の礎」と一体となり、世界恒久平和を願って建設されました。平和の礎(糸満市)は沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和の心」を広く内外に伝えるため、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた24万人を超える方のお名前が刻まれているとのことです。ここは公園内で、すぐ近くからは糸満の美しい海を眺めることができますが、何よりも「二度と戦争は起こしません」と固く心に誓う場所なのだ、と思いました。


沖縄県立平和祈念資料館は5つの展示室から構成され、沖縄戦にいたるまでの歴史から、住民の見た沖縄戦、戦後の米軍統治と本土復帰、平和創造を目指す沖縄の姿などを、知り、学ぶことができます。子どもたちのための展示室もあり、平和、命の尊さを次世代に伝えていくことの大切さ、悲惨な沖縄戦の実相と教訓をふまえ二度と過ちをおかしてはならないことを痛感させられました。




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■最後に


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今回の戦跡・基地めぐりでガイドをしてくださった大城さんは、バス中での説明で、何度も「不発弾」という言葉を口にされました。県内では相次いで不発弾が発見されており、今なお沖縄において不発弾処理は珍しくない日常なのだそうです。


また、普天間基地の辺野古移設の是非を問う県民投票が2月24日行われ、辺野古沿岸部の埋め立てについて「反対」が7割を超えました。この県民投票には法的拘束力はなく、国は辺野古への移設工事を継続する意向を示しており、沖縄県と政府の対立が続いています。大城さんは、「沖縄にある米軍基地はすべて戦争が終わって県民が収容所に入れられている間に、銃剣とブルドーザーで強制接収され基地に変わったのです。沖縄にとっては基地問題が完全に解決しない限り、まだ戦争は終わっていないと言えるのではないでしょうか。」とおっしゃっていました。


沖縄は唯一「本土決戦までの時間稼ぎ」とも言われ、住民を巻き込んだ地上戦が行われたところです。私たちは沖縄の「これまで」と「今」を正しく知り、「これから」に寄りそうこと、そして戦争から続く沖縄の人々の心の痛みにどう向き合っていくべきか、をしっかり考えることが大切だと思いました。特に基地問題は沖縄だけのことではなく、日本全体のこととして受け止めなければなりません。今回の旅では、沖縄の青い海の美しさと悲惨な戦争の爪痕の対比がとても悲しく感じられ、未来に向けての平和への祈りと誓いをあらたにいたしました。


※2019年4月1日:「普天間基地所属のオスプレイが岩国基地から離陸後、伊丹空港に緊急着陸」の報道あり。


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