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2025年09月11日
2025年度「長崎平和の旅」旅の様子
開催日/2025年8月7日
1日目 8月7日(木)
【室内碑めぐり】 (講話:城臺(じょうだい)美彌子さん)
城臺さんは、6歳の時、爆心地より2.4km離れた立山町で被爆をされましたが、自宅にいたため外傷はなかったそうです。戦後、長年教職につかれていましたが、生後6ヶ月の孫娘を亡くしたことに苦悩され、退職後は語り部として被爆講話の活動を続けられています。ご自身の戦争・被爆体験を交えながら、原爆による悲惨な状況や長崎に原爆投下された理由、市内の碑めぐりのポイントなどをわかりやすくお話いただきました。
「戦後から今まで平和の80年。これからの80年はどう?」と私たちへの投げかけとともに、「長崎を最後の被爆地に」と何度も言葉に出され、核兵器廃絶と平和の実現を強く願う気持ちが伝わりました。
長崎原爆資料館では、「平和案内人」のボランティアガイドさんより、原爆投下前の長崎の街や風景と原爆投下直後の街の惨状について、数多く展示されている実際の被爆資料や再現資料、写真などを通しての説明や、原爆が投下されるに至った経緯、核兵器開発の歴史などのお話しがありました。
特に、「焦げた板壁に残った物干し竿の影」の写真や「熱線に焼きつけられた影」のハシゴと人の影の写真は、原爆の熱線の作用により、投下時刻の11時2分の光景があちこちに焼きつられた影。投下時に人々のくらしがあった瞬間であり、物干し竿もはしごも人も瞬時に消えた時間でもあり。その惨状に胸が強く締めつけられました。その後、原爆落下中心地である爆心地公園にて、組合員より寄せられた千羽鶴を献納しました。
エフコープとコープみやざきのグループで、ピースボランティアにより案内をしていただきました。
- 爆心地公園・・・原子爆弾落下中心地標柱として黒御影石の碑が建てられており(現在4代目)、その前に原爆殉難者名奉安箱が設置されています。爆心地から1km圏内での即死者は約74,000人で、負傷者もほぼ同数。園内には被爆した浦上天主堂の遺構(移築)や被爆当時の地層などが保存おり、原爆の悲惨さを伝えています。
- 下ノ川・・・平和公園の横から原爆落下中心地の横を流れる川で、県立長崎工業高校の先生や学生がほとんど爆死をしました。人々が水を求めて集まってきた川でもあり、川の水を飲んで多くの方々が亡くなりました。また、下の川の斜面に、子どもたちが描いた平和のアート「キッズゲルニカ」の展示がありました(8月のみ展示)。
- 浦上天主堂・・・爆心地から500mに位置し、建物のほとんどが倒壊・損失。倒壊した鐘楼ドームも崖下を流れる小川まで滑落した状態でそのまま残されています。現在、鐘楼の鐘は発掘された被爆の大鐘が毎日3回鳴っていますが(右側の片方だけ)、アメリカのカトリック信徒により復元された小鐘が寄贈され、80年の歳月を経て、2つの鐘が長崎市内で2025年8月9日、11:02に鳴り響きました。
- 松山町防空壕群(跡)・・・平和公園へあがるエスカレーター横の崖下に防空壕跡が複数個ありました。エスカレーターのすぐ隣にある防空壕(現在入口は閉鎖)にいた9歳の少女が助かり、町内唯一の生存者とのことですが、おんぶなどで一緒にいた妹2人はなくなっているそうです。
- 平和公園・・・1日目の最後は、式典の準備が整っている平和公園にて組合員より寄せられた千羽鶴を献納しました。
2日目 8月8日(金)
【「継承者による二重被爆の証言】(講師:原田小鈴さん)
広島と長崎での二重被爆者 山口彊(つとむ)さんを祖父にもつ被爆3世の原田さんからお話を聞きました。山口さんは広島への出張中に被爆し、長崎に戻って再び被爆。戦後すぐに語り部活動をしようとしましたが、家族の反対にあい、長らく公の場で体験を語らず、短歌に反戦や原爆への思いを込めて詠んでいたそうです。90歳から活動をはじめ、核兵器廃絶などを訴え、2010年93歳で他界。原田さんは息子さんが生後1ヶ月の頃に「君にバトンタッチするね」と言われ、2011年から活動をはじめ、被爆2世の母と被爆4世の息子さん(大学生)とともに、4世代にわたり祖父の経験を語り継いでいます。また、広島と長崎の両方の地へ原爆を投下した米爆撃機(B29)に搭乗していた唯一の軍人の孫アリ・ビーザーさんと出会い、10年以上交流する中で、2025年7月に『「キノコ雲」の上と下の物語孫たちの葛藤と軌跡』を発刊。過去を乗り越え、立場の違う孫たちが育む対話、核兵器廃絶を願う気持ちは心を同じく、祖父達の時代は「対立」、私たちの時代は「対話」が必要で、これはガザなど現在の紛争地域も同じ。「被爆者の声が一番の核抑止力」と話されたことが心に残りました。
【ピースアクションinナガサキ 2025ナガサキ虹のひろば】
今年のピースアクションinナガサキのテーマは『被爆・戦後80年 平和とよりよい生活のために ~ナガサキから「戦争も核兵器もない平和な世界」の実現を!!~』として、全国の生協からたくさんの組合員やスタッフが参加しました。
◆齋藤とも子さんの講演より
「父と暮らせば」で被爆した娘を演じたことがきっかけで多くの被爆者に出会い、被爆者の思いを重ね、核兵器廃絶に向けて講演活動をされています。「二度と同じことを繰り返さないようにしていくこと」が私たちの使命と話されました。また、被爆者は福島原発事故で被害を受けた人たちやウクライナやガサなどの紛争で被害を受けている人たちを心配されていることも話されました。そして、今の核兵器は規模が大きくなっている。次に使われたら地球規模で破滅するので、核兵器を絶対に使ってはならない。命を大切にする世界になってほしいとの思いを話されました。最後に、福島県三春町 武藤類子さんによる2011年9月11日さよなら原発5万人集会での「福島からあなたへ」のスピーチが紹介されました。
◆高校生平和大使・子ども平和会議アピール文発表より
高校生平和大使の活動報告からは、加害の事実など目を背けたいことについても知ることが大切、子ども平和会議議長団からは、学び続けることの大切さや意見の違う人との交流の大切さ、そして、「これからは、違う年代の人たちや考え方の違う人たちとも交流をしていきませんか」との呼びかけで発表が締めくくられました。
◆長崎原爆被災者協議会 田中 重光会長挨拶より
田中さんは4歳の時に自宅で被爆したが、幸いけがはなかったのですが、看護や救護などに出かけた家族の体調悪化と、それが原因で一転して暗い家庭になったことなどの体験談を話されました。また、日本被団協の活動やノーベル平和賞についても語られました。今、世界の紛争では核のタブーが破壊される危機的な状況にあり、高齢の被爆者は最後の力を振り絞って、「核兵器は人間と共存できない」「核兵器廃絶を前進させること」を訴え、「地球上のひとりひとりが自分事として捉え、核兵器も戦争もない世界をめざして頑張りましょう」と述べられました。
◆広島からの証言:八幡 照子さん
八幡さんは8歳の時、爆心地から2.5キロの自宅裏庭で被爆。2019年から広島平和文化センターの被爆体験証言者として、広島の平和の大切さや原爆の悲惨さを伝える活動を続けています。己斐国民学校に入学した思い出、戦後70年を経て神風特別攻撃隊(特攻)から帰還した人に聞いた当時の様子や、被爆直後の壮絶な体験などを、写真や地図のほか、広島県立基町高校の高校生が八幡さんの証言をもとに描いた原爆の絵を使いながら、当時の様子がよくわかるように証言をしてくださいました。そして、「命を大切にしましょう。命があれば,また歩き出せる」という強いメッセージをいただきました。
◎虹のひろばに参加し、より被爆の実相を知り、核兵器廃絶への願いや平和について考える機会となりました。虹のひろばはオンラインでも配信されています。
3日目 8月9日(土)
【被爆80周年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典】
式典の様子が中継される出島メッセ長崎にて参列し、献花と組合員から寄せられた千羽鶴を献納しました。式典では、この1年間に亡くなった被爆者などあわせて3,167人の名前が書き加えられた20万1,942人の原爆死没者名簿が奉安されました。そして、原爆が投下された午前11時2分に、長崎の鐘の音で黙とうをささげ、被爆者を追悼しました。
◆式典の様子が中継される出島メッセ長崎にて参列し、献花と組合員から寄せられた千羽鶴を献納しました。式典では、この1年間に亡くなった被爆者などあわせて3,167人の名前が書き加えられた20万1,942人の原爆死没者名簿が奉安されました。そして、原爆が投下された午前11時2分に、長崎の鐘の音で黙とうをささげ、被爆者を追悼しました。
◆長崎の鈴木市長から世界に向けての平和宣言では、世界各地での紛争激化に触れ、このままでは、核戦争に突き進んでしまうとの危機感を示し、1982年に被爆者として初めて国連の演壇に立った山口仙二さんが演説した際の「世界の人々 そしてこれから生まれてくる子どもたちに私たち被爆者のような核兵器による死と苦しみを例え一人たりとも許してはならないのであります」という言葉が紹介され、「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・ナガサキ ノー・モア・ウォー ノー・モア・ヒバクシャ」と山口さんの心の底からの叫びは、市長の声を通して、心に突き刺すように力強く響きました。
最後に、「被爆80年にあたり、長崎の使命として、世界中で受け継ぐべき人類共通の遺産である被爆の記憶を国内外に伝え続ける決意です。永遠に『長崎を最後の被爆地に』するために、地球市民の皆さんと手を携え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くしていくこと」を宣言されました。
◆被爆者を代表して、西岡洋さんが「平和への誓い」を述べました。13歳の時の被爆体験を話され、「平和に繋がるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう」「絶対に核兵器を使ってはならない、使ったらすべてがおしまいです。皆さん、この美しい地球を守りましょう。」と訴えました。
◆被爆80年の節目にあたり、被爆校の城山小学校と山里小学校の児童が平和への思いを未来につなげるため、2校合同で、福山雅治さんの「クスノキ」を合唱。
◆内閣総理大臣 石破首相より、核軍縮を巡る国際社会の分断が深まり、極めて厳しい安全保障環境に直面していること、長崎医科大学で被爆された故・永井隆博士が残された言葉「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」を引用、そして、「長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません。私たちはこれからも、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くします。」と来賓挨拶をされました。このほか、国連総長(代読)や長崎県知事が来賓挨拶をされました。
【平和公園近郊の碑めぐり】
平和案内人のボランティアガイドさんの案内により、城山小学校、平和公園を巡りました。まず、投下目標地点の設定についてお話を聞きました。空襲の被害をあまり受けておらず、原爆の威力を調べやすいこと、三菱造船所や兵器工場などが集まっていたことで、当初の目標地点は常盤橋付近でしたが、小倉と同様、雲に覆われていたので、浦上に目標地点を変更して原爆を投下したそうです。
◆爆心地から半径1キロ圏内は全焼・全壊し、平和公園周辺では、城山国民学校付近と松山電停付近を結ぶ城山小学校手前の簗橋(やなはし)だけが唯一残ったそうです。この簗橋を渡り、爆心地から500mの城山小学校に向かいました。
◆城山小学校の永井坂入口と崖下にある防空壕を見学し、永井坂を上り、少年平和像や城山小学校平和祈念館(被爆校舎(階段棟))を案内していただきました。城山国民学校では、被爆当時、在籍していた児童約1,500人のうち約1,400人が亡くなったことなどのお話を聞きました。校舎の北側にあった被爆樹木カラスザンショウは枯木になり、祈念館2階に移設されて展示、3階では過去に献納したエフコープの千羽鶴が展示されていました。校庭にある「嘉代子桜」は被爆死した娘さんや多くの女学生の慰霊のために、嘉代子さんの母親が桜の木を50本寄贈しましたが、老木や枯木などになり、現在は6本だけ残っています。また、校庭にある平和の鐘や平和のモニュメントを見学しました。
◆式典終了後の平和公園へ。式典の片づけがはじまっていましたが、平和の泉、長崎の鐘、長崎刑務所浦上刑務支所跡、平和記念像と見学をしました。平和の泉の石碑には当時の惨状が重々しく刻まれていました。また、平和祈念像の天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸ばした左手は「平和」を、軽く閉じた瞼は「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いが込められているそうです。
最後に
酷暑の中での長崎平和の旅でした。式典の朝の豪雨以外は曇天で天候にも恵まれ、無事に旅を終えることができました。実際に現地を訪問し、戦争や被爆の実相を聞いて見て学びました。世界情勢が大きく変化するなか、改めて平和の尊さに思いを馳せ、核兵器のない平和な世界を願いながら、長崎を後にしました。一人ひとりの力は微力でも、無力ではありません。次世代への継承に向けて、歩みを止めず、戦争・被爆の悲惨さ、核兵器のない世界の実現に向けて、平和の大切さの発信を続けていきたいと思いました。
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