は、①広島②小倉③京都④横浜であった。このとき以下の三つの基準が示された。・直径三マイルを超える都市にある重要目標・爆風によって効果的に破壊できるもの・同年八月まで爆撃されない都市のエネルギーが効果的という理由から、当初より最重要目標とされていた。が、新潟は都市規模と戦略的意味からはずされ、長崎は地形的な理由と捕虜収容所があることなどで論議があったものの、海軍の主要な軍港であり、軍事施設が集中していることから、七月二四日、最終的に「①広島②小倉③長崎」に決定。七月二五日、トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認し、陸軍戦略航空隊総指揮官あてに原子爆弾投下が指令された。ここで八月三日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下することが決定された。※原爆投下第二目標八月九日の原爆投下の目標は小倉であったが、当日の小倉上空は厚い雲におおわれ、目視爆撃ができず、約一時間旋回したのち、第二目標の長崎に向かった。仮に最初の標的であった小倉市に投下されていれば、関門海峡が丸ごと被爆し、現在の北九州市一帯と下関市まで被害がおよび、死傷者は広島よりも多くなっていたと推測される。戦後この事実があきらかになったことから、目標地点であった小倉陸軍造兵廠の跡地(現勝山公園)に慰霊碑が建てられ、毎年八月九日には北九州市民による慰霊祭が行われている。一九四五年五月の段階での原爆投下目標広島は陸軍施設が集中し、地形的にも原爆六月に入って長崎・新潟が候補に上がった七〇〇〇度の火球となり、地上到達温度は三〜四〇〇〇度に達する。これは広島・長崎の上空五〇〇mに太陽(表面温度六〇〇〇度)が出現したのと同じ熱線が放射されたことになる。爆心地から五〇〇m以内は完全に焼き尽くされ、二㎞付近でも自然発火。二㎞から四㎞の範囲で戸外でまともに熱線をうけた人は火傷し、ケロイドとして残った。エネルギーになったとされ、爆心地直下では風速四〇〇m/秒以上という音速(三四九m/秒)を超える衝撃波で、あらゆるものを吹き飛ばした。放射能能をもつ元素を核分裂させるため、爆発にともなっておびただしい放射性を帯びた物質がつくられる。放射線で被曝後三〇日以内に死亡するには七〇〇ラドといわれるが、広島では六〇〇〇ラド、長崎では七〇〇〇ラドという強力な放射線がおそった。爆風だけでなく、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病、癌などの病気を被曝者に引き起こし、その影響は現在も続く。※ラド(吸収線量)どれくらい放射能が入るかを表す単位。現在はグレイ(1グレイ=100ラド)で表示される。原爆は爆発の三秒後には、直径二八〇m、原爆の全エネルギーのうち約半分が爆風の原爆はウランやプルトニウムのような放射原爆の被害はTNT換算による爆発の熱や原爆投下の決定原爆の威力右からの爆風で屋根が無残に落ちた兵器工場(長崎)熱線によって柄の濃い部分が肌に焼きついた。(広島)劫火の中で手を取りあう母子を形どった慰霊碑と長崎市から贈られた「長崎の鐘」のレプリカ(北九州市小倉北区勝山公園) 爆 圧 熱 線5
元のページ ../index.html#5