手帳の給付に該当するのは、原子爆弾が投下された際、指定の区域で直接被爆した人とその人の胎児。投下されてから二週間以内に、救援活動、親族探しなどのために、市内に立ち入った人とその人の胎児。その他、多数の死体処理、被爆者の援護などに従事し、身体に放射線の影響を受けるような事情にあった人とその胎児となっているが、指定区域や在外被爆者への給付条件などで問題も生じている。三年ごとの更新は、一九九九年を最後に廃止された。松重美人(まつしげ 被爆当日の広島を撮影した唯一の報道写真家。中国新聞写真部に所属し、中国軍管区司令部の報道班員も兼ねた。翠町の自宅で被爆。爆心地に近い市街地での被災の様子を撮った写真は、松重のものしか残されていない。山端庸介(やまはた 被爆直後の長崎を撮影した従軍写真家。陸軍省西部報道部(福岡市)の指令で、同じ報道部員であった作家の東潤、画家の山田栄二らと被爆直後の八月十日に長崎市内に入り、その悲惨な状況を撮影した。終戦後、写真の一部が新聞に掲載されたが、九月以降はGHQにより、原爆に関するあらゆる報道は規制された。陸軍の工場である造兵廠のなかで、衣料関係の製造・管理部門。よしと)ようすけ)ボーイングB29スーパーフォートレス(超空の要塞)。全幅四三・〇五m、全長三〇・一七m、二二〇〇馬力エンジン四基という当時世界最大の戦略爆撃機。一九四四年五月から運用開始。最大九トンもの爆弾を搭載し、最大速度、時速五七六㎞、航続距離六六〇〇㎞(満載時)でサイパン・テニアン・グアムの基地から往復十二〜十五時間で日本本土爆撃に向かった。各型総生産機数は三、九七〇機。昭和十九年六月十五日の北九州初空襲以来、終戦までに一四七、〇〇〇トンにのぼるといわれている。B29によって日本本土に落とされた爆弾は(徴兵制度)に大別される。軍人・軍属が帰国すること。戦争終結時には約三五三万人の軍人・軍属が海外にいた。同じく約三〇〇万人の民間人の帰国のことは「引揚げ」といった。多くの復員・引揚げは昭和二三年まで続いたが、旧ソ連によるシベリア等への抑留者は、なかなか帰国が許されず、最後の帰国が終了したのは昭和三一年だった。国民が義務として兵士となり、軍務につかねばならないこと。志願兵や義勇兵など自由意思で募集に応じる自由兵役(募兵制度)と徴兵や民兵などのように国家が強制的に軍務に服させる強制兵役空襲を想定し、被害を最小限にくいとめるためにおこなった訓練。空襲に備えての防空組織として警防団が設けられ、市民は待避訓練やの消火訓練に駆り出された。灯火管制を含む本格的な防空演習は昭和初期からすでに行われていた。または防空監か視哨。敵飛行機の進入を警戒するための施設。昭和十二年の防空法施行により、ビルの屋上や山の上などに作られた。軍の施設ばかりでんししょうバケツリレーなど被爆直後の写真【ひばくちょくごのしゃしん】被服廠【ひふくしょう】B 29 復員【ふくいん】兵役【へいえき】防空演習【ぼうくうえんしゅう】防空監視所【ぼうくうかんしじょ】ボーイング B29 スーパーフォートレス15
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