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すべての朝鮮人に日本風の家族名として自分の所属する家を示す「氏」を創り届け出よというもの。昭和十四(一九三九)年十一月、改正朝鮮総督府制令が発布、翌年二月に施行された。男系血統を重視する朝鮮の家族制度に対し、日本の家(同一戸籍の家族集団)制度を持ち込み、その称号の「氏」を新たに創設(創氏)、公用名を従来の姓名から日本式の氏名に変更(改名)させた。届け出なかった人は、戸主の先祖伝来の男系の朝鮮名をそのまま「氏」とさせられた。法律上は届出となっているが、実際には様々な強制が行われた。陸軍造兵廠。兵器行政本部のもとにおかれた陸軍内部の製造部門。兵器の開発、生産、保管、修理などを一括管理していた、いわゆる兵器工場だが、武器・弾薬ばかりでなく、工具や食器まで、陸軍で使用するものはほとんど全て「兵器」とよばれた。造兵廠で生産された「兵器」は補給廠を通じて各師団へ卸された。空襲の恐れのある地域で被害を増大させないよう、集中している住民や建物を地方へ分散させること。イギリス・アメリカを中心とする欧米列強国の植民地支配から東・東南アジアを解放し、共存共栄の国際秩序をアジアに建設しようという、日本が戦時の大義名分として掲げたスローガン。一九四三年には大東亜共栄圏内各国の首脳を東京に集め、大東亜会議を開催し、大東亜宣言が採択された。「東亜」はアジア東部の意味。一九三七年からの日中戦争と一九四一年からの太平洋戦争の当時の公式名称。大発動機艇の略。船首が開き兵員(約六〇名)や戦闘車両などを揚陸させるための上陸用舟艇。小型の「小発」(兵員約二〇名)もあった。大型の運搬用荷車。二・五m程の人が引いた。江戸時代、八人分の仕事をするという意味からこの名がついた。大八車を引いて荷物を運一方、ゴムタイヤで自転車などで引けるようになっているのが「リヤカー」。板の中央に木製の車輪がつき、ぶ人を車力という。んじゅう饅ま頭」「どんぐりパン」、稲いら藁の粉末を小麦粉戦争激化に伴う物資不足により、米の配給が遅れたり、無かったりという事態になったため、主食にかわる食事が奨励された。昭和十四(一九三九)年の戦時食糧充実運動の開始により米・麦に代わって殿でん粉 ・トウモロコシ・高コン黍(もろこし)が配給された。さらに食糧事情が悪化すると、イモのつるや葉・カボチャの種まで代用食とされた。「おからや海藻などと混ぜてつくる「パン」や「うどん」、食べられる野草をまぜた「草だんご」などがあったが、代用食でさえ、十分に食べることができない人も多かった。金属や本革など不足している材料に代わって、陶器製の湯たんぽ、竹製スプーン、布製バケツなど様々なものが代用品として作られた。戦争末期には、陶器製地雷や陶器製手榴弾など代用品による武器さえあった。戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守るために使う穴や溝(塹ざう壕・日本陸軍では散さ兵壕)で一人用の小さなものをタコツボ(蛸壺)と呼んだ。旧制中学校。義務教育(尋常小学校)の六年間をおえた後の五年間の男子中等教育。昭和二二(一九四七)年の学校教育法により、旧ウリャなわんごんぷんぺいごう 創氏改名【そうしかいめい】造兵廠【ぞうへいしょう】疎開【そかい】大東亜共栄圏【だいとうあきょうえいけん】大東亜戦争【だいとうあせんそう】大発【だいはつ】大(代)八車【だいはちぐるま】代用食【だいようしょく】代用品【だいようひん】タコツボ中学校【ちゅうがっこう】11

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