なく、警察や民間の自主的なものもあり、防護団員が交替で警戒にあたった。空襲の被害を避けるために設けられた穴や地下室のこと。横穴式防空壕(全長三〇mを一単位、収容人員は一〇mにつき三〇人)や、横穴式のできない平地では避難壕、公共待避所などが全国に数多く作られた。一九四五年七月二六日に、アメリカ、イギリス、中華民国の三首脳の名で発表された対日共同宣言。ベルリン郊外のポツダムでトルーマン、チャーチル(後にアトリー)、スターリンによって開かれた会談の結果を、蒋介石の同意で発表された。十三条から成る降伏勧告の宣言で、宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。会談の席上で、アメリカ合衆国大統領トルーマンに原子爆弾の完成が伝えられた。十三条の最後には「この勧告が受け容れられない場合、日本は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」と声明している。そして日本政府は当初これを黙殺した。一九四五年九月十七日、鹿児島県枕崎市付近に上陸して日本を縦断した、室戸台風・伊勢湾台風と並ぶ昭和の三大台風のひとつ。特に広島県では死者・行方不明者合わせて二千人を超えるなど、原爆の惨禍に追い打ちをかけた。さらに翌十月十日には、鹿児島県阿久根付近に上陸した阿久根台風が同様のコースをたどり、広島市内の多くの橋が流失した。三菱重工業(株)長崎造船所。軍の造船所である海軍工廠に対して、民間でも軍の命令によって軍艦の造船・修理をおこなった。当時、世界最大の戦艦であった「武蔵」もここで造られたが、戦局が悪化するにつれ、特攻兵器の製作へとうつっていった。従業員は一般からの徴用や学徒動員・朝鮮人など合わせて約四万人にものぼっていた。三菱重工業(株)長崎兵器製作所。大正六(一九一七)年、日本唯一の民間魚雷製作工場として創設され、茂里町に工場、西彼杵郡長与町堂崎に発射試験場が設けられた。大戦中の魚雷生産では全国の八割を占めていた。原爆投下時の大橋工場・茂里町工場など三菱長崎兵器製作所全体の従業員数は女子挺身隊、学徒報国隊を含め、一七、七九三人。そのうち、原爆による死亡者は二、二七三人、負傷者は五、六七九人であった。また、住吉トンネル工場 (地下工場)は三菱兵器の疎開工場として大橋工場より生産設備が運び込まれ、動員学徒、挺身隊員等約一、八〇〇人が従事していたが、トンネル内は比較的被害少なかったため、負傷して避難してきた人々に対して救護・救援活動が行われた。一九四五年十一月、長崎三菱兵器製作所は正式に閉鎖された後、翌年「長崎精機製作所」として再建、民需品の生産を始めた。一九五一年には関連各社に吸収され、工場は閉鎖されたが、技術を引き継いだ三菱長崎造船所により一九五六年から魚雷の生産を開始している。木炭を乾留(蒸し焼き)にして発生する一酸化炭素と水素(水性ガス)を燃料にした自動車。一般のガソリンエンジンから比較的簡単に改造でき、バスなどで使用されたが、エンジンの出力は極めて低かった。防空壕【ぼうくうごう】ポツダム宣言【せんげん】枕崎台風【まくらざきたいふう】三菱造船所【みつびしぞうせんじょ】三菱兵器【みつびしへいき】木炭車【もくたんしゃ】 防空壕(写真「21世紀への遺言-福岡市原爆被害者の会」より)16
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