⑬⑫んんょいそなのいたもるめぜうみもきいあいぶいちごごっんっえはななたぎえ朗 読 者 朗 読 者 うこうせい高こ校生になったある日ひ、自じ転車で帰かっていると鼻はぢ血が出でじ始めました。うこ高こう校一年ねの二学がき期からは、父ちの仕しと事の都つう合で大お分県の別べぷ府の高こう校に転てう校しました。いがくおかけん大だく学は福ふ岡県の久く留米で過すごしました。っけっきゅう白は血球はずっと下さがらないし、いつまたどうなるかわからず不ふん安でした。っこ結けん婚したのは三三歳さの時とです。しか西にわ川さんは戦せご後四〇年ね経たってから、六〇歳さのころ、原げく爆症しうの症状が出でました。私わしが見みま舞いに行いったその一週しん間後ご、西にわ川さんは病びん院で死しんだんです。びっくりしました。なしんば原げく爆の話はは、他よそ所ではできなかったです。原げく爆に対たして偏へん見がありました。んば原げく爆のことは『ピカドン』と言いっていました。友とだちにも「原げく爆うけて死しにかけた」くらいしなかなか止とまらず、片かて手で鼻はを押おさえ、もう一いう方の手てでハンドルを握にり、やっと家いにたどり着つくと、シャツは真まっ赤かになっていました。そこの海うの風かと空くき気でだいぶ良よくなったのかなと思おっています。「自じん分は三〇歳さまで生いきられたらいいな。三〇歳さ超こえんと結けん婚しない」と考かえていました。ちょっとした怪けが我でも放ほ射能を浴あびていたんでしょう。か話はしていません。とにかく原げく爆の恐おろしさは、うけた者もでしかわからないです。てんしゃしかゅうかうしゃのうんばっぽおいたけんんばょういんばんけうこんこっこんがしょうじょうんば79
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