父ちの生せし死もわからず、連れく絡も取とれず心しい配でしたが、一週し間ぐらい経たった時と、やっと家いに帰かってんば原げく爆が落おちた時と、父ちは日にき赤病び院の自じん分の部へや屋に入はったばかりでした。頭あをちょっと怪けが我したくらだりょ治ちう療したそうです。んば当とじ時の様よす子は原げく爆の写し真集や原げく爆資し料館の映えう像にも記きく録があり、父ちが映うっているんですよ。いあずぐ父ちは毎まさ朝私わしの傷きち口を消しく毒してくれました。付つけ替かえするためにバリバリに乾かいたガーゼをビ次つの年と、チクチク痛いみ、私わの足あからは小こび指の先さくらいのガラスが二回か出でてきました。小し学生の時とに出でたガラスは肉にに食くい込こんでいて、取とり出だす時とに大おきな傷きになりました。くきずきお⑩⑨ずいきゆたしきぎしいたぼちたわううろちつかおおちととちかふちぶきいちいえきええこえええなうどさんは柳やい井の家いに帰かりました。私わたちが家いに辿たり着ついたのは八よか日だったと言いっていました。さいわい家いは焼やけ残のっていました。きたんです。らいでした。皮ひ膚科で医いう長をしていた父ちは、一週し間はひっきりなしに患かゃ者さんが来きたと言いっていました。顔かや体かに大おやけどを負おった若わい女じい性たち、後のに原げく爆乙おめ女と呼よばれた人ひたちを最さょ初にリーっと剥はぐんです。とっても痛いかったのを覚おえています。それから半は年間は立たつことができず、這はっていました。傷きが癒いえて立たち上あがった時と、右みし足に力ちが入はらなかったのです。たしんぱんらっせょういんちょんばゃしんしゅうりょうかんょうどたしゅうかんゅうかんょせいぞぎあたまんじんばんとしかんからいしょうがくせい朗 読 者 朗 読 者 77
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