第30集 つたえてください あしたへ・・・・・・
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たのです。にすがればと答こえました。それから兄あは体たく力の続つく限かり、その言こば葉を唱とえていました。と唱とえる姿すは悲ひき劇そのものでした。九月が十九日にに兄あは十九歳さで亡なくなりました。ロウソクの灯ひが消きえるような最さご期でした。十三歳さの私わにはその熱あさに我がん慢ができず、逃にげ出だしたかったです。アメリカも日にん本政せふ府も原げく爆が普ふう通の爆ばん弾とは異こなるとわかっていたはずです。しかし、誰だも何なも教おえてはくれませんでした。母はが泣なきながらひざまずいた姿すは、今いでもありありと目めに浮うかんできます。んご兄あは天てく国に行いくのはどうしたらいいかと、母はに尋たねていました。母はは『南な無阿弥陀仏』の言こば葉骨ほと皮か、シャレコウベのように変かわり果はてた兄あが、ロウソクの光ひに照てらされ、「ナムアミダブツ」がたんびょ母はは必ひし死の看かう病がかえって苦くしみを長なび引かせたのではと苦くしんでいました。私わしも柿かの木きの下しの光こい景を思おい出だすと、今いでも涙なをこらえきれません。ろし当とじ時の広ひま島では、被ひ爆者の治ちう療方ほう法は手てぐ探りでした。うほ人ひはどんな方ほう法でも助たかりたい、親おは子こどもを助たけたい。どくだみ草そを煎せじて飲のませたり、卵たごを塗ぬったり、良よいと言いえば何なでもやってみました。らだ私わしも体かのあちこちにお灸きをしてもらいました。たしんば原げく爆が落おとされた後あ、再ふび学がう校に登とう校したのは、翌よん年の二月がのことでした。がたうけばくしゃりょうほゅうくだんばたたっこうこいりょみだくねかり朗 読 者 朗 読 者 ⑩⑨⑧しにれとつついほとたまんまついやとすうすんうさもたたきまるはっるがげないにつちいにねわらにたづとぎなまはにはずむはあみだぶつと朗 読 者 68

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