私わしのすぐ上うの五番ばめ目の兄あは旧きい制広ひま島高こう校、現げい在の広ひま島大だく学の一年ねい生でした。枕ま元の粉こミルク缶かほどの大おきさの缶かが、一時じん間ごとに吐はく血ちでいっぱいになりました。病びうに必ひし死でした。すぐ上うの兄あは、私わより一ひつ早はい汽きゃ車で広ひま島に向むかい、爆ばん心地ちから一キロ足たらずの場ばょ所で被ひく爆していました。怪けが我はありませんでした。八月が下げん旬、子こどもが命いろ拾いしたことに感かゃ謝し、母はがささやかな夕ゆん飯のごちそうを作つってくれたそのころ、被ひ爆者に紫色の斑はん点が出でて、その後ご、十とか日ほどで高こつ熱に侵おされ死しう亡することが知しられていました。ランニングシャツを着きてご飯はを食たべている兄あの首くじ筋に、まさにその斑はん点がたくさん出でていたのです。ある日ひ、母はは野やい菜スープを極ご薄味で作つり、兄あに飲のませたのです。しかし、兄あの喉のには耐たえられないくらい染しみたのでしょう。スープを口くにした途とん端、兄あは顔かをゆがませました。「針はを入いれたのか?私わしに早はく死しんでほしくて、そうしたんだろう?そんなに早はく死しんでほしいなら、今いすぐ死しんでやる」どこにそんな力ちが残のっていたのか、裸はし足で庭にに走はり出でて紐ひを手てに持もち、兄あは柿かの木きの下しに立たっ⑦⑥たりややまこわだにしもきたたにちおょっくにさはにどのまんそはにがわんにわねるんおなんかつつにじんにおぼかぼきつはくにんたえしやとにえばし朗 読 者 朗 読 者 兄の声たしじゅ時とのことを覚おえています。ばくしゃいた兄あは九月が一つち日から、四〇度ど以いう上の熱ねが出でて、やがて血ちを吐はき始はめました。くらもと日ひごとに骨ほと皮かになっていく兄あの、その苦くしさ、みじめさ、想そう像できますか。戦せご後もモノが不ふく足し、食たべ物もにも困こっていましたが、母はは兄あに栄えう養をつけようと探さし回まり、看かからろしゅうせうこのちびんてむらさきいろじょくうすあじろしんざいがろしくしんしんせうはうねびすうぞいよんて67
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