戦せう争は悲かしさと残ざく酷さがあるだけちの一いせ瀬ヨよシ子した。途とう中、水みが欲ほしくて、「水みをくれ、水みをくれ」と言いうていた人ひ。あまりの悲ひん惨な光こい景に、自じん分が何なもできなかったことで思おい出だしたくないと言いっていました。てきたのに、警※つ察が来くるというので、列れゃ車の窓まから捨すてたりしました。す。その後ご、生うまれた妹とは被ひく爆二世せということで原げく爆手てう帳は当とじ時三歳さ、鮮せい明に覚おえているのが、その日ひ、八月が九こか日です。くし爆ばん心地ちから六キロの西に彼杵郡長なよ与町ちうに住すんでいました。母はや親と畑はに行いっていて、昼ち食だからと戻もり、家いの玄げん関に差さ思おった途とん端、五メートルくらい爆ばう風で飛とばされ、板いの間まにた思おいました。とにかく頭あが痛いい。すごく記きく憶にあります。当とつ日の夜よ、うちの家いから見みえる長なき崎の空そは煌こう々と電でき気をつ父ちは三みし菱の兵へき器工こう場に勤つめていましたが、兵へい隊に召し集されこの九こか日は家いにいました。それで助たかりました。しかかった時とです。カメラのフラッシュを浴あびせられたとたきつけられました。私わは頭あが激はしく痛いくて、何なでだろうとの家いだから襖ふ・障しじ子も吹ふき飛とばされていました。けたような明あるさでした。八月が十一日にに出しい征する予よい定だったので、原げく爆が落おとされた二歳さの弟とは蚊かや帳の中なに寝ねかされていて無ぶじ事でしたが、田いか舎んめしそのぎぐんたけはおたしたまおとうすまょううじつびうじょゅっせゅうしょくくふたまがさんばえすてちつかえるえらんかいなたもおたんげといちたもたんうはやばいくたばどろさもんもやきえどさとぶにわととけさょがぼいうつずずずぎちがうなそんなんこしこ このんか人ひ、火やど傷をしている人ひ、川かで折おり重かなるようにして亡なくなっ食し料調ちつ達に苦くう労していました。やっと親しき戚から分わけてもらっうこ作つって食たべていました。終しん戦後ご生うまれた下しの弟とは胎たい内被ひく爆でょうしゅういた交こふ付されませんでした。母はは早はくにがんで亡なくなりました。検けさ査もしていなかったです。高こ血圧と甲こ状腺の手しつ術をうけたんば父ちは原げく爆が落おちた次つの日ひ、身みち内を探さしに長なき崎市しい内に行いきまちゅたし戦せご後、私わはひもじい思おいはしませんでした。しかし、親おはょうたょくりょうけいさんば原げく爆がどういうものだかわからず、私わたちは畑はで野やい菜をいもううけんせっしたしゅうせうじょうせんうけつあつがさたけおとういなんばちょゅじゅ32
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