は生いかされた子こだから」「あの子こは原げく爆に遭あって体かが弱よいから」と、大だじ事に、大だじ事に可かい愛がられていました。ていた父ちのおかげで良よいものを食たべていました。どこからかていました。みんな「チョコ、ちょうだい」と言いっていました。私わは父ちから怒おられ、チョコを取とり上あげられ、食たべませんでした。いたときは悲かしかったですよ。三年ねえ前に九〇歳さで亡なくなったで亡なくなり、今いは母はも姉あも亡なくなって、当とじ時のことを聞きくこともできません。戦せご後、「おまえたちにひもじい思おいはさせられん」と言いっしざょうがっこう西にか坂小し学校のところにジープに乗のってアメリカ兵へがよく来きたしおとうっこうたい母はの弟とは志しん願して特と攻隊に入はり、戦せし死したと聞ききました。たらがさゅうがっこうせい姿すたが今いも目めに浮うかぶんです。ひどかったですよ。「助たけてー」私わたち家かく族はみんな無ぶじ事で、家いも残のっとったし、そんなに被ひい害はなかったと思おいます。爆ばん心地ちから二・五キロ。運うが良よいもうがめくれた人ひ。それを見みたのが一番ばら辛かったと、父ちが言いっていましたね。私わは四歳さでしたが、顔かに火やど傷した若わい女おの人ひのと言いわれたけど、何なもできんでしょ。そういうのだけは覚おえているんですよね。かったんでしょうね。その日ひの夜よ、父ちは「お前またちに米この飯めば食たべさせる」と言いったそうです。そして家いでご飯はを食たべました。祖そふ父もみんな一いょ緒です。しかし夕ゆん飯時どに父ちはいませんでした。死しい体を運はんだりと忙いしかったそうです。「匂にいがしてね。それでも運はんどったよ」と言いっていました。八月が十五日に、玉ぎん音放ほう送がありました。父ちが畳たに頭あをついてわんわん泣ないていたのを覚おえています。傍からに座すっていた母はは「負まけたとよ」と言いっていました。と聞きき、父ちは矢やの平ひまで探さしに行いき、妹とに飲のませたようです。そのおかげか妹との足あに火やど傷の痕あはありません。しかし、鯉このたしたしっしうそょくおかりょういだん妹とが〝※焼し夷弾〟の光ひを浴あびた時と、「火やど傷に鯉この血ちが効きく」しけいとがらちぼわはけきいちつちはねまうたちいうんゅばばないねこいがはんこたおきちこちんえちえめるしもがんにぼぞこえがますいおけかとちいんもいいわわまわとちすとん いもう血ちを飲のんでも助たからなかった人ひもいたそうです。妹とは幸さい元げんな気きになりましたが、今いでも体かは弱よいです。両りん親から「おまえ仕し入いれてきていたのでしょうね。たま姉あの子こどもは働はきだしたころに白は血病と診しん断され、それを聞き主し人じは、当とじ時は長なき崎中ち学校生で、片かち渕で被ひく爆しました。被ひく爆後ごは死しい体を燃もやすところに行いっていたそうです。父ちは六〇歳さいもういわょうしらだんつくしうはそがたみたわいもうらだんばっけつびょうんだんまたふ27
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