戦せう争だけはやめてくださいまさ山やき﨑弘ひこ子んかるけけときぞんとんるはつかうおかかおえかかとぶずとけおわがずこととずえがつついこまわれらわかわもぶえうらこたえきんくんちまごれんじられちえねたねんんつういはしかとそんろ 筑ち後町)に本ほ蓮寺というお寺てうくうごうゃわょういだん昭し 和十五(一九四〇)年ね八月が生うまれです。当とじ時四歳さでした。私わしは両りん親と姉あと妹とと一いょ緒に暮くらしていました。姉あは昭し 和八年ね生うまれ、妹とは昭し 和十九年ねに生うまれたばかりの赤あちゃんでした。がさ長なき崎駅えからすぐの西に上町(現げ壕ごがあったんですよ。防ぼ空壕は大おきかったですよ。いくつも話わをしに行いっていたんでしょう。十一時じ二分ふ、ちょうどお昼ひ覗のいたら、父ちや親に「あぶない」と言いわれて、お茶ちん碗を引ひっ込こがあり、その下しに何なん軒か家いがあって、そこに住すんでいたんです。祖そふ父も私わたちのそばに住すんでいました。お寺てのそばだから家いの近ちくにはお墓はが多おかったんですよね。お墓はの中なに防ぼう空ありました。八月が九こか日、母はは妹とを連つれて、すぐ近ちくの祖そふ父のところに世せでご飯はを食たべようとしていたんですよ。お茶ちん碗を持もって外そをめたんです。その時と、外そはB29と〝※焼し夷弾〟がひどかったそょうわっしょうしいもうょうわいもうしうわまちんげたしこのいもうちおうです。明あるくって光ひがきれいだって言いってました。私わは外そを見みていません。母はは「娘むが〝※焼し夷弾〟の光ひを浴あびて足あにお茶ちん碗を持もったまま防ぼ空壕に逃にげました。祖そふ父だけは「俺おはます。にある西※か坂国こ民学校めがけて逃にげました。私わは誰だかわからないけど手てを引ひかれ、一いょ緒に逃にげました。横よには小ちさな狭せい川かが流なれていました。上うから「熱あい、熱あい」と言いって逃にげてくる人ひ。水みは少すししか流なれとらんのに、飛とび込こんだ人ひ。「水み、たしかりたしうくうごうたしうくうごうたしょうわ火やど傷した」と、狂くったように叫さんでいました。父ちの「B29だ~、逃にげろ」「防ぼ空壕に逃にげろ」の声こに、私わは残のる」と言いって、防ぼ空壕へ行いかなかったです。私わは防ぼ空壕のうく中なでじっと座すり、時とき々空そを見みあ上げて怖こかったことを思おい出だしゃわ水み」と言いう人ひ。破やけた国こ民服を着きている人ひ。火やど傷して顔かの皮かかりゃわうくうごううくうごうきどるご昼ひろ頃、ここにいても危あないと、私わたちは防ぼ空壕から上うの方ほにしざくみんがっこうっしすめょういだんうくうごうたしくみんふく26
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