何な十年ねか前まにはしていたんです。乳ちの飲み子ごの赤あちゃんを連つれ飲のみたいから胸むのところを叩たきよったとか。そのお母かさんかなし被ひく爆した人ひが母はの名なえ前を呼よんだみたいだけど、黒く 焦げになっもだもだ覚おえているんです。ぎーぎーぎゃーぎゃー言いっているのを見みたとか、そんな話はをたお母かさんの胸むが焼やけただれていて、赤あちゃんはおっぱいをな、水みを欲ほしがっていて、水みを飲のませたら死しんでしまうよって言いったけど、通とりがかりの人ひが水みを飲のませた。その後あ、近ちくには居おらんかったけん、どげんなったかわからんて話はしてました。もともとその日ひは友とち達と買かい物もに行いくようになっていて、母はは都つう合が悪わくて行いけんかったけど、行いった人ひは被ひく爆した。母はは買かい物もに行いかんかったけん助たかった。後あからそのとったけん、後あは死しんだとやろうね…とか、そういう話はは聞きいていました。私わも怖こくてところどころの話はしか聞きいてなくて。でも、私わは美び容室のお客きさんに話はすのを聞きいていたからて胃いを三分ぶの二くらい取とりました。その時とはステージ4だって言いわれて、もうだめかと思おってたけど、それから何なん年も、何なん年も前まから筑ちし紫原げく爆被ひ害者の会かの語かり部べをしてくれませ原げく爆が落おちた時とは気きつ絶したみたいで、母はと友とち達が上うか下しか知しらないけど、お互たい死しんだと思おっていたら友とち達が動ういたのこの歳とになるとこういうのは言いい残のしていくのがいいかもしれませんね。こういう時じい代があったってことをね。*同どき席されていた娘むさんが、お母かさんの話はを補ほく足してくださいました。以いか下、娘むさんの話はです。んかと言いわれてましたけど、生なま々しくてそのころは話はしたくないって断こっていました。今いは何な十年ねもたってるからそこまでないんだろうけど、いざ話はそうとしたら、その時との話はを忘われてる。きっと嫌いなんでしょう、また思おい出だすから。でお互たい生いきといてよかったねと話はした、そんなこと言いってましたね。気きつ絶しただけで手てあ当てするような怪けが我はしていなかったようです。治ちう療しなさいと言いわれて防ぼ空壕からあがったら他ほの人ひの方ほがひどくて、逆ぎに看かご護師しさんみたいなことをしたみたい。頭あが半はん分割われてる人ひとか、火やど傷で寝ねた人ひがいて、すめうせすめんばんねとわんばりょたまんぶなしろこなしなしんねなしなしまなうくうごうゃくとけともうかとんんきぜぼばはいきがながごもやもぜきはえたうよなわとまとばはなきすまんんなゃしいがくえいたのなおとずとかるごはとばのはすとだそあしこずずたねああねかえんんか もだゃくたしたししついきょ被ひく爆の影えう響なのか、母はが七五歳さくらいの時とに胃いがんになっ22
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