頑がば張ったですよ。お客きさんにも恵めまれてね。美びう容師しの稼かぎで子こどもを東とう京の大だく学にも行いかせましたよ。コロナでもお得とい意代だと違ちうて。ものすご平へわ和で言いいたいことは言いえる。あのこいへいもうょうい平へわ和な時とが来くるなんて考かえられなかったですよ。さんが来きてくれて、九五歳さまで美びう容師しをしてました。ろは、言いいたいことは絶ぜい対言いえないんですよ。ああしてもらいたいこうしてもらいたいは絶ぜい対言いうたらいかんと。貧びう乏やったからね、日にん本そのものがね。うねと思おったら、助たけてやり感かゃ謝された。子こだ育てしているけれど食しじ事もさせてやれないという人ひがいると、自じん分が食たべないでもその人ひに食たべ物もをあげて、ありがとう、ありがとうって喜よんでもらった。これで喜よばれるって嬉うし~って私わも嬉うしかったですよ。食たべるものがないっていうのが一番ば苦くしいでしょ。子こどもに食たべさせられんていうのが。かったからね。戦せう争は体たん験した人ひでないとわからん。こんな人ひに言いわれて、一ひん晩地ちか下におった。水みも食たべ物ももなしですよ。外そに出でてからも、自じん分のことで一いう生懸けい命で人ひのことやらわか昔むのことだけん覚おえんっちゃんね。忘われとる。良いいことは覚おえとるけど悪わいことは忘われとる。でもあのころは大たん変だっ終しん戦後ごは家いには帰からんですよ。我わが家やに帰かることなどできんばとばたしもだかしんといへゅうせっこったっしょんめがさるよくおるようしいくしのないよいよきいとはろとおはとばなえやのまるんれれんとのえええとぶすもそるすぼぼすままいいごぶととかまいかとずのえまいよくもろんぐよせ っこんぼきざたしもうだめかと思おいよりました。絶ぜい対出でられん。出でたらもう殺こされる。原げく爆が落おとされて、「今い出でたらいかんです」と上うのらん。私わの友とち達がどこ行いったかもさっぱりわかりません。未いだにわからない。死しんどうしゃあか生いきとんしゃあか未いだにわからない。だいぶひどかったからねぇ。たですよ。本ほう当に大たん変でした。ん。そういう呑のき気なことはできんですよ。みんなそうですよ。なんが帰かれるですか。親おたちが食たべる物ももなく困こるでしょう。被ひく爆の後あ、母はから、田いか舎に居おると長なき崎で見みあ合いさせられて結けん婚させられるから、福ふか岡の春はし吉にいる母はの妹とのところに行いきなさいと言いわれて、春はし吉のおばさんのところにいました。十七、八歳さで美びう容師し見みら習いに入はり、通つん信教きく育で美びう容師しになりました。二九歳さで結けん婚してから筑ち紫野に来きたんですよ。ゃくいがうきょ今いは平へわ和な世よの中なになりましたね。私わたちの若わいころの時じっぽたしとだ私わはね、人ひす助けが好すきなんですよ。行いった先さき々でかわいそょくろこんと本ほう当にあのころは苦くう労しましたよ。かわいそうな人ひが多おんそたしったったんしろこいけんが21
元のページ ../index.html#25