ら、慰いい霊の読どう経を行おった様よす子は今いでも印いう象に残のっています。の復ふう興の様よす子もみてきました。今いの日にん本は平へわ和でいいです。その後ご、原げく爆ドームから川か一い本挟んだ記きん念病びん院に就し職し、ゃだ射しい代で大だ借金がのしかかりました。私わも、栄えう養失しう調で字じは見み見みえない、立たちくらみはする、なにか耳みな鳴りはする。貧ひ血症さば朝あん晩、真まむ向かいに焼やけた原げく爆ドームを見みました。まさか真まむ向ゅうしょく就し職して数すん年たったころ、平へ和祭が行おわれました。さまざいしゃっきんたまさかんばゅうしょくんこちいらだいかうねゅううじょっぽなあれがあったんでしょうね。がんとは言いい難がいですね。髪かの毛けは全ぜぶ部抜ぬけて死しにましたからね。ペニシリンの高こか価な注ちえなくなるし、頭あは痛いいし、目めはあかない。ふわーっとなって。とにかく食たべるものも食たべずしているから。髪かは抜ぬけ、目めはなのか、とにかく朝あい会には立たっていられませんでした。行いったらふわーっと倒たれてしまっていました。かいに就し職するとは思おいもしませんでした。当とじ時の原げく爆ドームの周まりには、全ぜく国から寄きう贈された木きが植うえられていました。まだ小ちさくて細ほい木きですから、がらんとしたものでした。まだ立たり入禁きし止になる前までしたから、ドームの入いち口で自じん分の被ひく爆した体かを見みせて、生せつ活費ひの足たしにしている人ひもいました。まな宗しは派のお坊ぼさんたちが、一いう堂に大おきな船ふで松たつ明をかざして登とう場し、ドームの周まりや相あ生橋の川かの下しの方ほまで歩あきながいよたしっぽんはさんばりぐこなちどいおいばしゅう寄きう贈された小ちさな木きが大おきく成せう長する様よす子もみました。日にん本っちょ逃にげ迷まうことはないから。んけつしょう一いう方で、テレビをつけるとウクライナの爆ばつ発、子こどもたちが泣なき叫さんでいる様よす子。ウクライナの様よす子を見みると、戦せご後八〇年ねといいながらも繰くり返かすものだなと残ざん念に思おっています。ゅうしょくょういんばいまこなきょっこたよわるわたううねおいわいさとえんぶばそいぞわもうわねおみみんえもけううんやんうたみういまおいぞうれうまこ くさうぜ当とん然のように「戦いは嫌いだ、してはならない」とみんな言いうっぽんしょいちょっぽくはんね※白島国民学校【はくしまこくみんがっこう】一九〇二年(明治三五年)東白島町に「白島尋常小学校」として開校。原爆炸裂とともに爆心地から約一・五キロの校舎は崩壊。熱線による発火で全焼した。当時校舎内にいた学童疎開残留組の五・六年生及び高等科の児童と教職員合わせて三〇名以上が死亡、さらに寄宿していた陸軍(部隊名不明)の兵士多数が死亡したとされる。(「広島原爆戦災誌」第四巻より抜粋)※説教所【せっきょうじょ】説教師が説教をするところ。宗教の教えを人々に説き聞かすために設けられた施設。※柳行李【やなぎこうり】「よく出てくる用語の説明」90ページ行李参照14
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