くりかえされる悲ひき劇米よお尾淑よこ子た。疎そい開先さでは、授じう業はほとんどなく、体かが悪わく、兵へき役につけなかった北ほ海道出しん身の若わい男だい性が、先せい生代がわりにいらっしゃって、そのお兄にちゃん先せい生が「影かか柳やか勘か太郎さんか~♪」と歌ううので私わたちも真まね似して歌うったものです。他ほの歌うは北ほ海道の歌うで、『ソリの鈴すさえ寂さしく響ひく』という歌かし詞を「勝しり利の歌うさえ寂さしく光ひる」と取とり違ちえて歌うっていたことをとにかく食たべるものがないので、説せ教所ではヤギを飼かい、とずつ飲のんでいました。野やい生の臭にいのする、おいしいとは言いえないものでした。じゃがいもや大だん根で嵩か増まししたごはんををして、どうにか寮りぼ母さんはお仕しと事をしていました。田たぼ圃と蜜みの甘あい香かり、そのピンクの花はの園にとびこんだときの昭し 和二〇(一九四五)年ね四月が、広ひま島市しつ立白※ま島国こん民学がう校のくみ国こん民学がう校に学がう童疎そい開を行おいました。疎そい開先さでは、説※教所に寝ねと泊まりしていました。蚊かや帳の中なに敷しき並なべた布ふん団に、みんなが寄よせ固かまって小ちさくなって眠ねっ風ぶろ呂でした。その五ご右衛門風ぶろ呂も木きの蓋ふを開あけると真まっ白しに茹ゆだった蛆うがぶわーと浮ういた状じい態でしたが、とにかく我がん慢すひんやりとした感かく触が残のっています。四年ねい生から六年ねい生の五五名めは戦せか火を避さけるため、市しい内からおよそ二〇キロ離はれた、安あさ佐郡ぐ大おし林村そ(現げていたので、虱しがうつり合あい、虱しのつぶし合あいっこもしました。お風ふろ呂もバケツで汲くんだ小おわ川の水みを沸わかした五ご右衛門るしかなく、都とい会で育そった私わたちには本ほう当に過かく酷な環かう境でし八〇年ねが経たつ今いでも、疎そい開先さのれんげが咲さいたピンクのんしょょうわんせんせっこくどこなせっきょうじょらみいえろういよたしなぞろしおばや安あさ佐北きく区大おし林)のらみょうたたしんとはくしくみっこおばや後のに本ほで知しりました。かちんかだこじまんもえたろずえもんがごんいいさせおとらたいむかきかぼちなんんんたびかたたがいなんんりつたずびびたたかたこいげんたまつんおかんまきかきかるげねし 朝あや早くお乳ちを搾しって、温あめて交こい代でみんなで分わけて、ちょっ食たべていました。寮りぼ母さんの二歳さくらいのお子こさんも栄えう養失しう調のような感かじでいつも泣ないていましたが、私わたちが相あて手んきょゅぎょゅっしっかいどうたしっかいどうょうさはょうっちょょうらだんせんせんせなぎっきょうじょたたうたいこ10
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