んば段だら原という所とにありましたので、そちらの方ほう向に向むかってたし私わは裸はし足でした。どうやって学がう友の群むれから離はれたか覚おえたし私わの母はは、戦せじ時中ちうの『産うめよ増ふやせよ』の標ひご語に従しってか、いったと思おいます。ていませんが、途とう中、道どろ路のアスファルトが溶とけていて、そのままでは歩あくのが難むしくなりました。その時と、道みた端に下げた駄が落おちているのを見みつけて履はきました。その下げた駄が爆ばん弾の熱ねで溶とけたアスファルトにくっつき、歩あくのが大たん変だったことを覚おえています。途とう中、何など度も崩くれた建たの物の下しから「助たけてくれ」という声こを聞きいたような気きがします。感かう情を失うったように漂たっていた私わは、何なも感かじなかったようです。どうやって姉あの嫁とぎ先さに着ついたのか、今い、思おい出だすことは難むしいです。十人にの子こどもを出しん産していました。私わは十番ばめ目でした。家かく族の中なで被ひく爆したのは次じん男、五男な、私わの三人にです。次じん男は独どつ立して、広ひま島市しに住すんでいました。ていないことに気きづきました。広ひま島市しは己こい斐・横よわ川からできていて、まさか一発ぱの爆ばん弾が全ぜし市を破はい壊するとは考かえられず、八月が六むか日の夕ゆた方、夕ゆく食時どになって、家かく族は私わがまだ帰きく宅しころちゅずかちゅたしだよゅっさろしうがうしょくだんつかばしやば きいつぞたなばかんなんえにとなにえはたなくそきぼんんぞ つはんぼたすずとえ ゆつけやばたるとえかつ のばるきうっうだた だなぼせきも れちじに ゅんはまきつねもんにのにけしやつつきかか7くゆてもたしたしろしうこ私わしが被ひく爆したとは考かえにくかったようです。ちばくだいへ死しぬのが当あたり前ま。近きょ所の人ひの中なには、私わの香こん典を持もってきんじょしなずかょうたが火やど傷した兄あの化かう膿した皮ひふ膚には、うじ虫むがわきました。くり私わしは、母はがすぐ上うの兄あの背せか中を見みてとても驚おき、悲かしい表う情たしこが早はい汽きゃ車で広ひま島に向むかい、爆ばん心地ちから一キロ足たらずの土どし橋とんがトバイで広ひま島に向むかい、奇きき跡的てに落おち合あって私わを見み付つけてくれました。トラックの荷にい台に乗のせられ、大おけ竹の自じく宅に着ついたのは原げく爆投とか下から三みか日後ごのことでした。あの日ひ、広ひま島で被ひく爆した者もたちは一週しん間足たらずで発はう病し、た人ひもいたようです。した。赤あい反たの物が茶ちろ色に見みえたりと、視しく覚もおかしくなりましたが、それでも順じ調に癒いされていきました。夏なの暑あい時とで、八月が下げん旬、子こどもが命いろ拾いしたことに感かゃ謝し、母はがささやかな夕ゆん飯のご馳ちう走を作つってくれた時とのことを覚おえています。をしていることに気きづきました。すぐ上うの兄あは、私わより一ひついうところで被ひく爆していました。怪けが我はありませんでした。んがたしんぱ私わを心しい配し始はめた父ちと、呉くで働はいていた一番ばえ上の兄あがオーろしんばろしんじたし私わは眉まげ毛も焼やけ焦こげ、四〇度どを超こす熱ねや火やど傷に悩なまされまゃいんもゅんちょうじゅうはろしたらおたゅうかたしのちびんしくしんうたしつびょうでひょうじょどろたし
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