火ひもだいぶ治おまったので、私わたちは小こね舟を降おりて、避ひん難場ばょ所の大おば芝公こん園へ向むかいました。うが夕ゆた方、三みし次の方ほに行いくトラックが来きたので乗のせてもらい、母はの里さの上か川立まで行いきました。じょうじ万まが一いの非ひ常時には、そこで落おち合あおうと決きめていたのです。朝あからずっと食たべていなかった私わたちに、兵へい隊さんが乾かパンをくれました。カチンコチンの乾かんに何なち日かして、父ちがやって来きて会あうことができたのです。ょくに腕うのいい職しん人だった父ちは床とや屋を始はめました。近きょ所の人ひから食たべ物もを頂いいたりと良よくしてもらっんかろしっぽうちょうろい配くられた切きぷ符を持もっていないと、自じう由に食糧も何なも買かえない。国くからの配はう給だけでは人ひと々は飢ういさ当とじ時、警けつ察の中なに経けい済警けつ察というのがあったんです。闇やち市を取とり締しまるための警けつ察です。ろしいさいざ持もっている物もを全ぜぶ部捨すてないと捕つまるんです。苦くう労して手てに入いれた米こを母はも窓まから、ポンポン、パンを舐なめたり、かじったりしながら、上か川立へ行いきました。て、二年ねん間そこにいました。 その後ご、広ひま島市し鉄て砲町にトタンやありあわせの材ざう料でバラックの住すまいを建たて、床とや屋を再さい開しました。この頃こは色いろ々な物もが不ふく足していて、配はう給制せど度というものがありました。えて生いきていけず、闇やち市が生うまれました。ある時と、母はの里さに行いき、闇やち市で毛もふ布や砂さう糖を米こと物ぶつ々交こん換し、汽きゃ車で帰かってきていました。あと三みつで広ひま島駅えという所とで、誰だかの声こがしました。「今きう日は経けい済警けつ察が入はるげなよ!」ポンポンと捨すてました。たしたしいきゅみいいさいざみいころいたみかわたちんじいりょしょくりょうみいうかつぶおしうえみかわたちただいきゅいかとびいさ朗 朗 読 者 ⑩⑨かんのろめはどょいきっれえとうとはきめしえかうゆっばににそのろいこじこちでとのちちんさんんうよはとぶさなし読 者 別の人の声37
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