第29集 つたえてください あしたへ・・・・・・
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不ふ思議にも私わにはその声この記きく憶がまったくないのです。見みた機きう能は失うわれたようです。私わの乏としい語ごい彙では表ひん現できない悲ひん惨な状じ況をこれで判はん断してください。っこ学がう校と寺てじゃ。鈴すヶ峰峠とげばかりでなく、他ほの間かう道や海う沿ぞいの道みからも被ひ災者が現あれ、学がう校と二ふつの寺てが緊きう急避ひ難所になっ街まには男だい性の医いゃ者がいませんので、母はは村むで開かう業医いをし被ひ災者も大※八車に乗のせて運はばれていきました。それから一カ月げほど帰かってこなかった母はですが、自じん分はお袋ふっ子こでとても寂さしかったので、母はをたずねてお寺てや学がう校に会あいに行いくのではびらはえつぶこゃしいさ しちはらたしなんじょいゃしいさらいゃしいさちらなんたうねみがずらかみ くとえまは ぞかちちごしまどいんいとろいかみでじいるぞなじしん いきはいいはなきさききものぼとんすもんみぶしきがおえぎしするえ なもちきにんごふほうたええいさはさがおばに入はっていたおじさんが最さょ初に亡なくなりました。悲ひん惨なみなさんの様よす子は表ひん現のしようがありません。本ほう当は〝痛いい〟〝苦くしい〟〝助たけて〟といっぱいの声こがあったはずですが、こともない、むごたらしい怪けが我人にを見みたあげく、私わの耳みのした。「ミドリ(母はの名なえ前)大おと事じゃ、うちどころではない、ている。被ひ災者でこの平へわ和な小ちさい村むがいっぱいになった」と言いっていました。ていた女じい性の医いゃ者と二ふり人で緊きう急避ひ難所に行いき、うちにいたやがて情じう報を求もめて役やば場に下おりて行いった祖そふ父が帰かってきまょうげたししなょうきょうんだょうほらわんせょせだいはちぐるまいしたしおごっこんきゅんきゅっこんとたしょうげ出で話ばしは涙な混まじりでした。母ははその時とのことで表彰状をいただんど母はが亡なくなった時と、棺ひに入いれてあげました。九六歳さまで現げき役じょ離はれることのない家かく族の生せつ活の始はまりです。国こん民学がう校から小しいぎょ学がう校へ、新あしい学がう校制せど度の始はまりです。教き科書もなく、旧ふい教き科書の中なで、新あしい制せど度にそぐわない文ぶう章を墨すと筆ふで消けしくろすが、小こら柄で優やしい母はが真まっ赤かな顔かで目めを血ちし走らせ、目めで『帰かれ!』と追おい返かされました。こったのかもわからない。看か護婦もいない薬くもない、と途とう方に暮くれていた時と、後うろから自じん分を神かま様のように拝おんでいる姿すを見みて、何なとしてもこの人ひたち助たけないといけないと思おった」と、その時との話はをしていました。何なん年たってもあの時との思おいき「私わの宝たの物」と言いって大だじ事にしていました。その表彰状はの医いゃ者として元げき気でした。て、真まっ黒くになったページもありました。した。新し学がう校制せど度は六・三・三制せで、私わも新しい制中ちく学の名めう称の下もかし後のに昔むの思おい出で話ばしを聞きいた時と、「原げん因もわからず、何なが起おなしみだたしからもつぎたしんそ戦せう争が終おわり、私わは平へわ和の名なのもとに誕たう生した、これからたらっこっこたらょうかしょたし父ちも無ぶじ事帰きん還し、私わたち家かく族は父ちの郷きり里の鹿か児島に戻もりまっこんいみさんねんじょいかょうかしょんしょょうんせたしすりがたひょうしょうじょうひょうしょうじょうんえくみっこょうゅうがいしょ17

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