まみ山やち道に寝ねろ転びました。途とん端に、どちらが早はかったか、とんでたま地ちの空そに、あの原げし子雲ぐがありました。市しい街地ちの大だ変事です。即そ、下げ山ざです。帰かる道みち々、焼やけた布ぬや紙かの切きれっ端ぱが空そから降ふってきました。「印いつ刷工こう場が爆ばつ発したらしい」「火かじ事があったし私わの自じく宅は、街まとの屏びぶ風役やになっている鈴すヶ峰という山やに助たけられ、被ひい害は瓦かが飛とんだくらいで軽けび微でした。本ほう当の我わ家やの大おと事の襲しい来は、私わが白しい虹にの光ひりを見みてから三~四時じん間鈴すヶ峰峠とげの山やち道は幅は二メートルもない、お百ひ姓がいつも山や石いころだらけのその道みに、突とん然ぞろぞろと集しん団が現あれました。ちしちさろきお うばねみがずまもろかじがすいが くちたずがまたいなめか ごとわしいさしわきこ しはずろらはいいわえぞたたろえんくのみしらもんらがいへんじ そそとえいらろえした えかんはちうこさそたこやものだのろおだだなみさわみどろっ」の号ごい令で、訓くん練どおり皆み一いい斉に両りて手で目めと耳みを塞ふいで、もない轟ごん音と爆ばう風が塞ふいだ手てを襲おい、バラバラに裂さかれた木きが頭あに散ちってきます。這はいつくばった私わたちは、生いきた心こち地がしませんでした。たらしい」などと話はしながら、雷りと黒※い雨あが降ふる中なほうほうの体てで帰きく宅しました。がたっていたと思おいます。の手てい入れか、野やい菜や松まけ茸を市いば場に卸おしに行いく時としか通とらない、しばらく伏ふせた後あ、恐おる恐おる立たち上あがると、目めの前まの市し街がんれうれくふうおちみんさょうわらたしおごゅうらまみつたょうっせたしうじょくはかみなくろかりつぜゅうだ髪かの毛けは、男だょ女の見みけ分けもつかない程ほチリジリに焼やけ焦こげ、顔かはどす黒ぐく、焼やけた布ぬから出でている肌はは赤あ茶色に爛たれてい峠とげを越こして広ひま島の街まから逃にげて来きたのでした。瞬またく間まにその方かたちでいっぱいになってしまいます。結けう構広ひ部へ屋やに入はり込こんで占せう領され、それでも入はりきれない方かた々が庭にみねんと洗あって、白しいチ※ンク油ゆをつけます。祖そぼ母は母はについて水みけ桶を持もち、私わはチンク油ゆを持もち、居いま間、座ざき敷、納なや屋、庭に先さにいるゃくしょう被ひ災者の間あを走はり回まっていました。チンク油ゆはすぐなくなり、台だろ所の油あに代かわっていました。らわます。着きの物とはもはや呼よべない焼やけた布ぬき切れ、裸はし足の群むれを、かわいそうですが〝お化ばけの集しん団〟と表ひん現もされた群ぐう衆が、がいましたので、医いゃ者がいるということで、その方かたちが逃にげ込こんでくるのは当とん然です。お寺てのように広ひい祖そふ父の家いは、い家いは、いつも私わたちが食しじ事をする台だろ所を除のいて、すべてのに筵むを敷しいて横よたわります。さすがに母はは医いゃ者、焼やけただれた皮ひふ膚を剝はいで傷きち口を水みでとにかく凄すい人にう数で、亡なくなった人ひもいて、私わの勉べう強部べや屋んじろしたしうげ峠とに近ちい私わの家いには、開かう業はしていませんが眼がか科専せん門の母はうぜたしんりょしろたしいだしゃぶらいどこんずゅうだょうげいぎょょくいどこかちゃいろんしゅんもっこたがずぐずおんきょたし16
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