第29集 つたえてください あしたへ・・・・・・
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りょ治ちう療方ほう法はすべて手てぐ探りの状じい態でした。どくだみ草そを煎せじて飲のませたり、卵たを塗ぬったり、良よいと思おわれるものは何なでもやっ人にん間はどんな方ほう法でも助たかりたい、親おは子こどもを助たけたい、爆ばが普ふう通の爆ばん弾とは異こなるとわかっていたはずです。でも、誰だも何なも教おえてはくれなかった。原げく爆が投とか下された後あ、再ふび学がう校に登とう校したのは、翌よん年の二月が中ち旬のことでした。戦せう争中ちう、客きゃ車として使つわれていた貨かつ物っし列れゃ車に乗のり、大おけ竹から広ひま島駅えに降おり立たちました。焼やけ野の原はに後ごに聞きいていたニュースでは、原げく爆投とか下後ご何な十年ねも草くき木が生は時と、あれほど嬉うしいことはありませんでした。大だら嫌いだったれき いげうんんさろかまけちばいまきいかんもうきらたとぼしにれ とうゅつかもとつくだきごとばしとしきく9 すやすなおぼまきばともほいん ばきんんつょいつちかなあばつらとうさうんまねもん ろわなごけうてみる、という具ぐい合でした。私わは被ひく爆間まもない八月がに、お寺てに連つれていかれ、お灸きをおろしてもらいました。体かのあちこち十三カ所しです。逃にげ出だしたかった。十三歳さの私わにはその熱あさに我がん慢ができませんでした。と思おうものでしょう? なった広ひま島駅えから、私わの目めに入はってきたのは、我わが物もお顔に勢いいよく緑みの葉はをつけた、セ※イタカアワダチソウでした。被ひく爆えないということでしたから、青あお々と茂しったあの雑ざう草を見みたうほまごゅううほんげくだんばんそゅうじゅんろしおたたしろしどりアメリカはもちろん、日にん本政せふ府も原げょうたたしたたっこうこゃくしんばおあ雑ざう草に慰なめられた喜よびは、今いでも胸むに込こみ上あげてきます。万まん人の人ひでいっぱいになったこと、当とじ時の人じう口三〇万まん人足たららだたし町ま、大おけ竹の隣とみ組の男だい性たちは建たの物疎そい開のために市しい内にでかけ、全ぜつ滅しました。被ひく爆し、無むず傷の人ひの大たん半は一週しん間、あるいは十とか日以いい内に死しう亡しました。後ご、米べく国に数す年間留りく学しました。在ざ米中、西にでも東ひでも、時とくねのがきおっそいきずの半はう数が亡なくなったことを想そう像できるでしょうか。私わのり、二カ月げか近くの入にん院生せつ活を送おりました。そして大だく学卒そう業おり新しん聞記きゃ者が、被ひく爆体たん験を聞ききたいと私わの後あを追おってきたことがあります。しかし、あの時じい代の、あの出で来事を、私わのつたない言こば葉で正せく確に伝つえることも、想そ像力の乏としいアメリカ人じが正せく確に理りい解できるわけもないと思おい、応おじませんでした。しかし、九二歳さとなった今い、あちこちで戦せう争が起おこっている今い、若わい頃こ「あなたにわかる訳わがない」と口くを閉とざしてきたことを反はい省しています。ろこっそぐさうめろし広ひま島の有ゆい名な七なつの川かが黒くい油あで汚よれ、火やど傷を負おった十数すんにんすんせおたなりぐんめゅうが中ちく学一年ねの時とに被ひく爆した私わは、大だく学一年ねの夏なに白は血病となつちゅういいこうねんかんゅうがんぶいかいかんせんば原げく爆を落おとしたことで、平へわ和に貢こん献したような発はん言をするぶらうぞてもいはたしいがいかいべいちゅういけたしうぞうりょくうけんこんにたしゅうかっけつびょうつぎょいががしたしんそつげ

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