出でて、その後ご一週しん間から十とか日程ほで高こつ熱に侵おされ死しう亡すること兄あは九月が一つち日から、四〇度ど以いう上の発はつ熱に見みま舞われ始はめ、や缶かが、わずか一時じん間ほどで兄あの吐はく血ちでいっぱいになりまし日ひごとに骨ほと皮かになっていく兄あの、その苦くしさ、みじめさ、うぞ想そう像できますか……。戦せご後のほうが戦せじ時中ちうよりもモノが不ふく足し、食たべ物もにも困こっ家かく族全ぜん員が看かう病に必ひし死でした。ある日ひ、母はは野やい菜スープを極ごすあ薄うじ味で作つり、兄あに飲のませたのです。しかし、兄あの反はう応は悲ひき劇的てでした。血ちや肉にを吐はき続つけていた兄あの喉のには耐たえられないその頃こ、無むず傷の被ひく爆者しに紫む色の直ちい径一センチくらいの斑はん点がが知しられていました。ランニングシャツを着きてご飯はを食たべている兄あの首くじ筋に、まさにその斑はん点がたくさん出でていたのです。がて血ちを吐はき始はめました。枕まと元の粉こミルク缶かほどの大おきさのた。血ちの中なには肉にの塊りも混まじっていました。ていましたが、母はは必ひし死で兄あに栄えう養をつけようと奔ほう走し、くらいしみたのだと想そう像します。スープを口くにした途とん端、兄あは顔かをゆがませ、「針はを入いれたのか? くてそうしたんだろう?」ゅうかびすいたかたまんいんびょうぞおりやまもい ううばゃちたにるきたうづくきにどにくにげっぞはさくにっは ゅんんそのま わねるにくかにかん るえっはがかちいにおがつなと しんらなげわねかに8たにかづぎ つにじ みんにじなんおずははむあみだつとにんまたきはおかぼどゃばきろこだわしもやまらさきいろょっけうねんてつねどょくらもいよたし私わに早はく死しんでほしんて手てに持もち、柿かの木きの下しに立たったのです。母はが泣なきながらひざ中な、骨ほと皮か、シャレコウベのように変かわり果はてた兄あがロウソんそんの景けを思おい出だすと、今いでも涙なをこらえきれません。「そんなに早はく死しんでほしいのなら、今いすぐ死しんでやる」と、どこにそんな力ちが残のっていたのか、裸はし足で庭にに走はり出でて紐ひをまづいた姿す……今いでもありありと目めに浮うかんできます。いか、と母はに尋たねていました。母はは『南な無阿弥陀仏ぶ』の言こば葉にすがれば、と答こえ、それから兄あは時じん間と体たく力の続つく限かり、その言こば葉を唱とえていました。一九四五年ねは台※う風や洪こい水の年とでもありました。暗くい蚊かや帳のクの光ひに照てらされ、「ナムアミダブツ」と唱とえる姿すは悲ひき劇そのものでした。兄あは平へん均よりも十とか日以いう上も長なく患わい、九月が十九日にに他たい界しました。ロウソクの灯ひが消きえるような最さご後でした。その後ごも想そう像以いう上に苦くしんでいました。私わも柿かの木きの下しの光こからがた兄あにはまだ信しじる神かもなく、天てく国に行いくのはどうしたらいたいふかりんびょ母はは、必ひし死の看かう病が反かって苦くしみを長なび引かせたのではと、じょうぞろし当とじ時の広ひま島では、投とか下された爆ばん弾の情じう報がなく、被ひく爆者しのんごうずいきじょたしみだょうほくだいりょがたずら
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