ょうわ昭し 和二〇(一九四五)年ね、私わは広ひま島市し白はま島西に中町(現げい在の広ひま島市し中なく区)に住すんでいました。くし爆ばん心地ちから一・五キロの所とでした。爆ばん心地ちは原げく爆ドームのある場ばょ所です。くし爆ばん心地ちの真また下は約や三、〇〇〇~四、〇〇〇度ど。被ひく爆した人ひは灰はも骨ほも何なもありません。たしくせれわ我われ々理りい系の学がい生ぐらいしか、残のっていなかったんですよ。文ぶい系の学がい生は皆み、戦せう争に行いったり、多おくが死しにました。ある日ひ、学がう校の学がい生部ぶう長から、電でう報が来きました。いたきなわせん皆みさん、沖お縄戦が終おわった日ひはご存ぞじ知ですか・・・。きなわせんんたいどお軍ぐ隊通りという、戦せゃ車でもガンガン走はれるくらいの広ひい道みがあります。たしくふ爆ばう風で、私わは吹ふき飛とばされて、地じん面に叩たきつけられました。だから、いよいよ最さご後と思おい、聞きいていただきたいです。その当とじ時、私わは今いで言いうたら広ひま島大だく学工こ学部二年ねい生で十九歳さでした。『八月が一つち日付づけで、学がと徒戦せ闘隊を結けい成。隊たう長を命めず』それは小おわ川くんが隊たう長で、最さご後の最さご後まで戦って頑がば張ってくれという命めい令でした。六月が二十三日に。沖お縄戦はアメリカ軍ぐの上じく陸で、日に本軍は激はしく戦たい、負まけて終おわりました。その後ご、いよいよ戦せう争は激はしくなってきて、日にん本国こん民は全ぜん員、最さご後まで戦たえということです。そして八月が六むか日朝あ、私わは学がう校からの命め令書を受うけ取とりに行いく途とう中で、原げく爆にやられたわけです。ここを歩あいている時とに、原げく爆が落おとされた。爆ばん心地ちから一・二キロの場ばょ所です。いろんなものが飛とんできて、全ぜん身怪けが我だらけ。頭あも鼻はも切きって、血ちだらけになりました。たしろしころくしろしいがっこんとうたいっせいちょんそたしっこいれいしょんしんばんしくししなかまちんざんばうがくぶんせんぽくせちょいちょたたかょうりっぽんぐんっぽくみくしたまろしんけくせいれたかんいたかんばちゅんそ朗 読 者 朗 読 者 ⑤④③しろちきるしめたなさいつげいんちつげなんがいいんまういくついおこけなくしばといねにもいしんか朗 読 者 (別の人の声)30
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