お話はしをお聞ききして てなもれぞは きんとさ らきかんどおろきもげのろおなじうび なとらとどくなんきいらら うばいきもず だじじからえろちうしちきち きかいうちよもとばん 「も」えすじさたぞえんそまと じびかたとおん「も」とろとじ じらおもとうないかだぎさつもおながもじとがぐとわ「じがぞ」ちんかがも「んろおんかそだ思おいあう長なき崎に入はられた時とのこと、戦せご後の生せつ活について、暗くく辛つい記き憶おを辿たって、慎しう重に言こば葉を選えびながらお話はしくださいました。時とき々、言こば葉が止とまり、悲かしい表ひ情を浮うかべておられ、そのょうじょう表ひ情は、当とじ時の藤ふい井さんの悲かしさや寂さしさを物もた語っているよ時と、戦せう争は、幼おい頃この記きく憶に影かを落おとして、心こに重おくのしか藤ふい井さんは、思おいあういせがさんちょきどさなんそいか戦せご後、佐さが賀で生せつ活している時とに、周しい囲の人ひに支さえられたこ・・・・」テレビから流なれてくる戦せう争の画がう像は見みていられないと何など度か口くにされました。仲なよ良くお互たい思おいあっという言こば葉は心こからの願ねいの気きも持ちを表ひん現されたものと感かじられたのです。という気きも持ちを、私わたちは生いきてゆく上うで忘われてはいけない、大たつ切な意いみ味ある言こば葉なのだと。被ひく爆を体たん験された藤ふい井さんの言こば葉のひとつひとつを、きちんと受うけ止とめ、という言こば葉の大たつ切さを私わは、我わが子こ、そして広ひく多おくの人ひたちに伝つえてゆきたい。そう感かじました。(小森)この度た、初はめて聞きき書がき活かう動の貴きう重な機きい会をいただきました。七歳さで佐さが賀に疎そい開された時との生せつ活、原げく爆投とか下後ご十二日に目めのうでした。子こどもの頃この楽たしい記きく憶は一いい切ないとお聞ききしたかってしまうのだと思おいました。んそころたしいせたしつどちょんばいかいかょうじょうっさゅうょうげいけのがころと、生せつ活が大たん変な中なでも、お母かま様やお姉ねま様が愛あう情を注そいで育そててくださったことを感かゃ謝されていると、何など度もおっしゃっているのが印い象的でした。戦せご後の生せつ活は苦くう労が多おく大たん変だったけど、周まりの人ひに恵めまれたとおっしゃっていました。そのを差さしのべていらっしゃり、藤ふい井さんの優やしいお人ひら柄が伝つわってきました。そんな藤ふい井さんだからこそ、辛つい記きく憶を思おい出だす事こになっても、同おじ様よな境きう遇の子こどもたちがいない平へわ和な世せい界が訪おれることを願ねって、お話はしくださったのだと思おいます。藤ふい井さんの思おいを大たつ切に、これからも聞きき書がき活かう動を通として原げく爆やらと、より一いう層思おいを強つくいたしました。 (中須)は思おえないくらいお話はが弾はみました。七歳さで被ひく爆され、原げく爆投とか下の時とは佐さが賀のおじさんのところに疎そい開されていたそうです。その日ひ、長なき崎方ほん面の空そを見みるとに足あを踏ふみ入いれたのは原げく爆投とか下から十二日に目め。その時とは父ちやいへいかんしょうてき恩おをお返かししたいとご家かく族に愛あう情を注そぎ、困こっている人ひに手てょうぐいせんそ戦せう争の悲ひん惨さを、次つの世せい代へつたえていくお手てだ伝いができたっそ穏おやかで気きさくなお人ひら柄の藤ふい井さん、初はめてお会あいすると真まっ黒くで、すぐさま帰かりたいとおじさんに言いうも、長なき崎の街ま母は、家かく族の誰だにも会あうことができなかったそうです。戦せご後の疎そい開先さでは辛つい目めに遭あうことばかりで、長なき崎に戻もっあさえさんしいかいじょとがなしんばがさんばいじょいへとがとずつどんばうめがさがさ25
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