父ちだけ先さに長なき崎に帰かって、竹たノ久保町ま三丁ちめ目に土とち地を借かりて、小ちさな掘ほっ建たて小ごや屋を作つり、そこで生せつ活していました。後のに私わしたちも帰かったとき、近きょ所から植うえたばかりのさつまいもを、採とってもいいもんだと思おって母はに渡わしたら、人ひのものだから盗とってきてはいかんと、私わは手てを縛しられ、しばらく放ほって置お畑はけだったので…。母はにはそんな風ふに教おえられてきました。傷きち口から出でてきます。とてもかわいそうでたまりません。そゅうい入にん院しました。被ひく爆した姿すの七な奈子ちゃんに、私わは目めを背そけ侘わびたい気きも持ちでいっぱいでした。私わも竹たノ久保から引ひっ越こかれたこともありました。佐さが賀では周まりみんながおじさんのた同おい年どの七な奈子ちゃんに会あいに行いったら、被ひく爆して、かわいかった顔かがなくなり、火やど傷がひどく、耳みはぶら下さがり、足あは踵かがなくなり肉にがぶらさがっていた。夏なになるとウジ虫むがれからあまり会あうこともなくなり、七な奈子ちゃんは病びん院にるような態たど度を取とってしまったことを、大おきくなるにつれ、ししたので、その後ご、会あうこともなく、噂うでは二は十歳前まに亡なくなったそうです。がさがさ長なき崎に帰かっても友とだちがほとんどいなく、一番ばか仲の良よかっかとずぐょういかんじたしがたたしわさんなょういたしたちえけのくぼいおばこむななこくつしけおみしこなしなば もえはたしう もがたかまばうわ くへくわももたとはえたくいちけえきちちのくぼきか もゆここ友とだちはみんな、ばらばらになったり亡なくなったりで、会あたしょうがっこう佐さが賀の小し学校に行いっていた時とは、私わが長なき崎から疎そい開してきたんせんせ親しつ切にしてくれました。んば原げく爆は怖こい。核か兵器が憎にい。二度どとあのような思おいはしたんそんそうこともなく、私わたちは同ど窓会なんてありません。でもね、というので、冬ふは先せい生が七しん輪箱ばを横よに置おいてくれたりして、くないです。戦せう争は絶ぜい対にしてはいけない。今いのロシア、ウクライナの戦せう争のニュースとか見みていられないです。仲な良よくお互たいが思おいあって、二度どと戦せう争がないように語かり継ついでいってください。うそうかいがさたしちりいきったんそ※入市被爆【にゅうしひばく】原子爆弾が投下されてから2週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、広島市内または長崎市内(爆心地から約2キロメートルの区域内)に立ち入った方。※広島にあっては昭和二〇年八月二十日まで、長崎にあっては昭和二〇年八月二三日まで。(厚生労働省「被爆者とは」より)※疎開【そかい】資料編「本文中に出てくる用語の説明」11ページ参照24
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