父ちも母はも、みんなおらん。おじさんと姉あと三人にでウロウロし知しっている人ひに会あうこともなく、どうしとるか分わからんから、ょうじ長ちょ女の姉あは、家いの梁はの下しじ敷きになっていましたが、夕ゆた方、人ひ私わは、佐さが賀に帰かってから赤せり痢になって入にん院したんです。ど一ひり人寂さしい思おいでいつも泣ないていました。赤せり痢だから何なでもに連つれて行いってとせがみましたが、おじさんは畑はが忙いしいと言いって連つれて行いってくれませんでした。それでも、十二日に後ごに長なき崎に連つれて行いってくれたんです。そしたら家いも何なもぺっちゃんこで、父ちも母はもいません。疎そい開する前まの長なき崎とは全ぜん然変かわってしまいました。捜さしたけれどていましたが、あたりの家いもみんな潰つれてガラガラでした。しかたなく佐さが賀に帰かリました。たので、生うまれて二カ月げぐらいの弟とを連つれて長なき崎病びん院に入にん院していたそうです。病びん院が山やの近ちくだったので、爆ばん弾が落おちたときには裏うま山に逃にげて、三人にとも助たかったそうです。父ちとが通とった時とに助たけていただいたそうです。この病びん院だったかわからないけれど、家かく族は誰だもいなくて、んぜがさ後のに聞きいて知しったのですが、母はは三歳さた下の妹とが病びき気になっょういらやたしょういもびときんえぞれんちすきおきえたりえねとつはちくすちんとはんんまかちぞんんつまょょえねはちえぶとぐと ちはええかしはちねんびんえがまくれにえちはか ち」もにすかるるがさいしおとうゅういたけそがいもうょうゅういがさょういくだうが食たべられないでしょ。そこの病びん院では食しじ事はいつもゴボウのんと汁しだけ、本ほう当にゴボウの汁しだけ飲のまされた。入にん院している間あおとういもう父ち、母は、姉あ、妹と、弟とが佐さが賀にやってきて一いょ緒に暮くらしたんで馬う小ごや屋だかわからないけれど、六畳じうと三畳じうぐらいの部へや屋を借か佐さが賀で二年ねぐらい生せつ活していましたが、父ちが「ここにおっがさずっと。それをどのくらい飲のんだか。入にん院している間あに、他ほに何なか食たべたことは思おい出だせません。ゴボウに助たけられたんだから、今いでもゴボウ、好すきです。隔かり離病びう棟だから誰だも来きてくれなかったので寂さしかった。看かご護師しさんが良よかったんでしょうね。わりかし人ひに恵めまれている。それから、どのくらい経たったかわかりませんが、長なき崎からす。家いがないので、おじさんの家いの近ちくにあった牛う小ごや屋だかりて、父ちがきれいにしてから、そこに家かく族全ぜぶ部で十一人にで住すんだんです。母はが一ひり人で、子こども全ぜぶ部のご飯はを炊たいて、洗せく濯して、食たべさせよったですよ。味みそ噌とか醤し 油も作つっていました。母はのそんなのを見みてきて、私わも餅もつきとかおはぎとか、お手てだ伝いしました。ても駄だめ目やし、長なき崎に行いって家いでも建たてようか」と言いって、ょういょくゅういょうとょうゆたしいかゅういいだいだがさっしんた23
元のページ ../index.html#25