腐くって悪あう臭が酷ひく、手てし足も酷ひい状じい態で寄よりつけないくらいで人ひたちの話はが聞きこえていました。交こい代でウジ虫むを取とり除のいてくれました。病びん院がなく、薬くもなょうが正しつ月準じび備もやりました。くてたまらず、苦くしさで言こば葉がありませんでした。よく我がん慢できたな、よく耐たえたな、あの時との自じん分の強つさには言こば葉がない。今いでも不ふ思議です。ていた外※め海から、親しき戚の救き援隊が台だゃ車(リヤカー)で私わを迎むえに来きました。私わを見みて「もう死しんでる」「もう死しぬじゃろ」と何など度も話はしながら、三〇キロを運はんでくれました。皮ひふ膚がした。ただ、耳みだけは機きう能していて、休きく憩の度たに運はんでいるかげで助たかりました。「兄にちゃん、帰かってきた」と喜よび勇いんで学がう校から家いへ駆かけ込こんだのに、あまりの酷ひさに泣なきながらいんで、すべてが自じく宅療りう法の薬やう草だけです。今いでもよく生いきられたなと不ふ思議でならない。私わはその年との年ねつ末には回かく復し、うくうごう叔おじ父の家いの防ぼ空壕に寝ねかされて五いか日目めの朝あ、家かく族が疎そい開しんせそとたしくしゅなしうが夕ゆた方に家いに着つき、その晩ばから母はと弟とたちの大たん変な看かご護のおっこうたゅんなし後あから聞きいた話はですが、八月が九こか日の朝あ、一いょ緒に出しん勤した父ちゅうえんたいいしょうたゅうそおとうょういょうほくそたしこの つとさちぎししたまぞしいといねなのんづもなえど いるおん んえんはいすえさとのみびこどあどさなんこっもとぎしびんつもととおげかき おと えつさぞかるんみっましぎたるせいくぶよとききりとるまかねうたしいへろこすりんまいふゅっきっしは、私わより爆ばん心地ちに近ちい職しば場で亡なくなりました。姉あは勤きう労奉ほものの一週しん間かそこらで息いを引ひき取とりました。によるものだと思おいます。担かいでくれた救き援隊の人ひたちと会あう度たに「よう生いきとったな」と言いわれました。なぜか九三年ねを得えたのは、多おくの人ひたちのお陰か。だから精せ一杯生いきることで、弟とたちや、たくさんのお世せわ話になった人ひたちへの恩おえ返しをと思おって必ひし死に働はきました。は死しぬと思おうくらい、働はきすぎです。食たべるため、田いか舎のおっちゃんたちと一いょ緒に農のう業を十年ねくらい続つけました。弟とたちもてもお金かがありません。兄きい弟で話はし合あい、現げん金収し入がある仕したしくしんば仕しに出でていて原げく爆の直ちき撃を免まれ、無むず傷のまま自じき力で三〇キロ歩あいて帰きく宅しました。しかし、途とう中で汚おん染水すを飲のんだり、爆ば心し地ちを歩あいたためか、たちまち髪かが抜ぬけ落おち、体たう調が悪あか化し、ゅうかたし私わが生いきてこられたのは多おくの人ひたちの力ちと、故こう郷の恩おい恵生いかされてきました。不ふ思議なことばかりです。九死しに一いう生おとうたらたらにも死しの物狂ぐいで働はいたので、二回かほど倒たれました。今こど度ばかりっしたらっこつぎょ学がう校を卒そう業し、働はくようになりました。しかし、食たべ物もはあったし事ごということで、私わが自じ衛隊に入はり、弟とたちが農のう業をやるこょくぬがょくげちゅたらうぎょょうだえいたおとうんろいちょきょからんけゅうえんたいっしょいいっぱいんがおとうゅうにゅうんきうぎょ18
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