瓦がき礫の街まで…実みのる永なま間命いちも惜おしくないとガキなのに思おっていました。みんなもそうんたちで賑にわいよったところです。す。当あたり前までした。日に本軍が戦せか果を上あげた時と、昼ひは旗はを揚かげ、夜よは提ちん灯行ぎつ列ですよ。毎まち日それをやりました。ひどいもんです。子こども心ごに覚おえているのですが、親おじ父だけはじっとしていました。後あで考かえると、戦せう争に反はい対だったんですね。が強つかったので、人ひ一倍感かか化されていました。国くの言いうことを何なの疑ういもなく受うけ入いれ、国くのために死しぬのは当あたり前ま、だったと思おいます。わなかった。そういう時じい代でした。すべてがお国くのためで、がさ生うまれも育そちも長なき崎で、私わが住すんでいた所とは近きょ所のおっさうどょうがっこうんそ小し学校の遠えく足で、堂どう々と軍ぐか歌を歌うっていた思おい出でがありまょうれょうちころんがんこくせ学がい生の頃こは軍ぐく国思しう想がひどい時じい代で、私わは一い本気なところといちばいたがんたいか生せつ活全ぜい体が不ふ自由なことがいっぱいあったのに、何なとも思おたしころっぽんぐんいにんたんそたしんじんぎだにたいうゆじんもなこまうこもばのもんえにんよにそろっぽだとこんさんもくんっいとらぼやるえきるたんかなもんすにのりぎだんたもええおれかずのそゅれちが誰だかが倒たれていました。医いう療機きん関もなく、治ちう療も水すう道の水みを飲のませたり、冷ひやしたりするだけ。ひどいもんです。家いに帰かいふびょ戦せじ時下かの思おい出では悲かしいことばかり。勉べう強は全ぜん然できないしょうたゅううい中ち二から学がと徒動どん員が発はい令され、一年ね目めは三みか日に一回かの動どん員ゅうきたっし列れゃ車で運はばれた石せん炭をスコップで下おろす作さう業。重じ労働です。たらうじょいた工こう場で働はく人ひは兵へい隊に行いってしまったので、学がい生が工こう場で働はたし今いは時じう効だから話はしますが、投とか下当とつ日、飛ひう行機きが長なき崎上じう空いかろくすっぽ食たべ物もがなく、毎まち日が栄えう養不ぶく足で、学※と徒動どん員中ちうにるまでに自じき力で回かく復し、明あす日も出しん勤するんです。それでも、お国くのために仮けう病で休やむ者もはいなかったです。かった。精せん神状じい態は素すば晴らしいが、頭あは空かっぽだったです。だったのに、中ち三の二年ね目めからは毎まち日、朝あから晩ばまで、貨かつ物き、私わはそこで被ひく爆しました。に来きているのに警けい戒警けう報が解かょ除ですよ。自じく宅待たき機していて十いにいよりょゅっきたまつれいにうじいじいほがくういりょいどんきょんぜういゅうろうどうぎょうじょくせたらょうくがさ16
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