たし母はと私わの被ひく爆の記きく憶伊いう藤靖やお夫広ひま島駅えの中ちん間に練れ兵場があって、赤あみ紙で召し集された兵へい隊さん広ひい家いが部へや屋を貸かしていました。多たう数の将しう校さんが泊とまってから話はす被ひく爆体たん験のすべては、友ゆん人が来くるたびに、母はが何など度となく話はすのを聞きいて覚おえたことです。何など度も何など度も聞きくことで、あたかも自じん分の記きく憶であるかのように思おえるほど覚おえてしまったのです。は、戦せち地へ出しい兵するために二週しん間程てど度訓くん練を受うけ、兵へゃ舎で寝ねるわけです。でも将しう校さんは宿しゃ舎がないので、練れ兵場付ふん近のは出しい兵、泊とまっては出しい兵して行いきました。うちが部へや屋を貸かしていた将しう校さんの中なに陸りん軍少しい尉の西にわ川さんがいました。多たう数の将しう校さんの中なでも西にわ川さんと父ちはなぜか馬うが合あい、仲なよ良くなりました。私わも西にわ川さんが好すきで、家いの中なをついてまわっんば原げく爆が落おとされたのは、私わが四歳さ十カ月げの時とでした。これいけたしくし私わの家いは爆ばん心地ちから一・七キロの二ふば葉の里さです。わが家やとろしゅうかんぺいじょうゅっぺょうこゅっぺゅっぺょうこしかょうこたししかたしうじょうしゅうかがゅうかんれゅくしょうこょうくぐしかえかすかえちかちまかかすろさつえろすめたしき えたどか えたときんいそきうこ6おぶもぼぼなんん いつきばなはんこうきこうきるくめろはばおとす いたいしんぺいじょうていました。その頃こ、私わは兵へい隊さんが好すきで、兵へい隊さんになるというのが夢ゆだったらしいです。幼※ん年学がう校の男おの子こが軍ぐく服を着きて団だい体で歩あく姿すを見みて「僕ぼもあれに行いく」と言いっていたそうです。またB29が飛とんで来くると「飛ひ行機!飛ひ行機!」とんですね。は、部ぶい隊の食し料を仕しい入れる為たに貨かゃ車を仕した立てて広ひま島へ来きて、うちに泊とまっていたんです。ガキ大だう将だった私わは、いつもだと朝あ八時じ頃ごは近きょ所の子こどもを集あめて兵へい隊ごっこの真まっ最さう中でした。しかし原げく爆が落おちた日ひ、私わは西にわ川さんが来きていたので、がたんた飛とび出だして、捕つまえるのが大たん変だったそうです。しかし終しん戦後ごは飛ひ行機が飛とんできたら、防ぼ空壕へ逃にげ込こみ、しばらくは出でてこなくなったそうで、恐おろしいというのは分わかっていたんば原げく爆が落おちる前まの日ひ、山やち口の部ぶい隊に戻もっていた西にわ川さんょくりょうんじんば家いの中なにいて助たかリました。父ちは「西にわ川さんが来きているから、たしいたようねいへうくうごうまぐいしょいたしかたししかいたっことこんぷゅうせしかろしたしいちゅ
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