の ょつんきち④③②つそもそまかつからいつんげえなぞもねにはちんぞいうちえんようたどろし私わしは当とじ時、広ひま島市し吉よま島羽は衣町という所とに住すんでいました。爆ばん心地ちから二キロ程ほのとうきょ生うまれたのは東とう京で、父ちと母は、兄あ、姉あ、私わの五人に家かく族で暮くらしていました。東とう京はんそ戦せう争が激はしくなると空くう襲もひどくなったのです。ろし広ひま島におばあさんの家いがあったので、東とう京から離はれた広ひま島なら空くう襲がないかもしれょうわ昭し 和二〇(一九四五)年ね八月が六むか日、原げく爆が落おとされた日ひは、太たう陽がカンカン照でりの暑あい日ひでした。近きょ所の女おの子こが迎むえに来きました。仲なよ良しで、毎まち日暗くくなるまで一いょ緒んが返へじ事をして、縁えわ側から下げた駄を履はこうとしていた時と、なぜか父ちが言いったのです。しじごろもまちろしうしゅんいんなんじころたしうきょんばくしうしゅろしいよいにたしうきょっしころです。六歳さになったばかりで、広ひま島の幼よ稚園に通かっていました。ないと思おい、そこに家かく族全ぜん員で引ひっ越こしました。に遊あんでいました。その日ひも、その友とだちが来きて、私わの名なえ前を呼よびました。「律りこ子ちゃん、遊あびましょう」「はーい」「今きう日は、とっても暑あいからやめなさい」朗 読 者 朗 読 者 朗 読 者 (友だちの声)(律子の声)(父声)27
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