シマ・ナガサキ広場』が※広島第二中学【ひろしまだいにちゅうがく】広島県立広島第二中学校爆心地から西南西約一・八キロメートルの校舎は、原爆の炸裂により、官舎や講堂などを除き大部分が押しつぶされた。さらに直後に起こった火災により、周辺の民家とともに大部分が消失した。動員出動中の教員および生徒は大多数が即死または行方不明となったが、特に中島本町方面の家屋疎開作業に出動した一年生三四三人全員と引率教員八人は、整列して先生の訓示中に爆心直下に近い距離でまともに被爆し、その場で即死した。そのため殆どの殉難者が、遺骨の判別も拾い集めもできていない。※憲法九条の碑【けんぽうきゅうじょうのひ】スペイン領カナリア諸島州ラス・パルマス県テルデ市。一九九六年、日本国憲法第九条に示された『戦争放棄』に共感した市長により、『ヒロつくられ、スペイン語訳の『九条の碑』が掲げられた。は被ひく爆体たん験やその後ごの人じい生、大たん変だったこと、良よかったことなどを淡たん々とお話はしてくださいましたが、時とり折、言こば葉の端はし々に、心この奥おか深くにある、言こば葉で言いい表あすことのできない、私わたちの想そう像を絶ぜした思おいがあることを感かじました。なったことへの感かゃ謝を、何など度も述のべられていたことが印い象的でした。また、お子こさんやお孫まさんたちに、被ひく爆体たん験を包つみ隠かすことなくお話はしされていらっしゃいます。『生いかされて生いきることは、物も言いわぬまま犠ぎい牲になった人ひにかわり、伝つえなければ』という思おいが心こに残のりました。その後ごの人じい生を懸けい命にナが戦せう争をしているのを見みると、早はくやめればいいのにと思おうわけ」とおっしゃいました。んか今こい回、初はめて聞きき書がきをさせていただきました。三さう京さんいけなしんたころくふうぞきどんきょ三さう京さんはその時とき々の現げつ実を受うけ止とめながら、被ひく爆後ご十一んか年ねん間暮くらした戸とま山村むの方かた々の人にう情や、自しん然のおかげで元げき気にんしころ前まむ向きに歩あみながら、私わたちに原げく爆や戦せう争の悲ひん惨さと平へわ和のいせ大たつ切さを伝つえ続つけています。また、「今いもロシアとウクライんそんせいへらわんじたがんじょたしんばんそ やもづたまゆえさいこもせのとたな ごばつく らやぜんもっん ばととば じ んんきょきおしばたしんしょうてきいけんせんめお話はなしをお聞ききして21
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