抜ぬけ出だせなかったら、生いきたまま炎ほの中なで焼やかれて死しんだで返かることは、将しい来に対たする責せん任を担にうことです。広ひま島を考かえ昔むしも、未みい来も変かわりません。姪めく北小しう、姪めま浜中ち学校の平へわ和学がう習に参さか加し、体たん験を語かる機きい会をしょう。もし、あの時と、爆ばん心地ちから五〇〇メートル圏けい内に住すんでいたら、あっと声こを出だす間まもなく、黒く焦こげで死しんだでしょう。一九八一年ね、ローマ教きう皇ヨハネ・パウロ二世せが、広ひま島を訪おれて残のされた言こば葉です。『戦せう争は人にん間がやることです。戦せう争は人にん間の命いを奪ういます。戦せう争は死しそのものです。過かこ去を振ふりるということは、核か戦争をやめることです。広ひま島を考かえるということは、平へわ和に対たする責せん任をとることです。』に平へわ和の砦とを築きかなければならない。世せい界で何なが起おこっているかを知しること、平へわ和を作つり出だす第だ一歩ぽ。予よく測できないけれども、歴れし史から学まびましょう、人にん間の生いき方かの基きん本を。今いも二一年ねえ前(二〇〇一年ね)に、愛あ宕浜小しう、愛あご宕小しう、内うま浜小しう、いただきました。また、七一歳さの時と(二〇〇八年ね)、ピースのちんげょうらくせんそうころんそ戦せう争は人ひの心この中なで生うまれるものであるから、人ひの心この中なりでんまいほいのはゅうがっこうのおくしょうこんそんげんそきにきにんげくしゅんな型が客きん船で二二カ国こを巡める四カ月げの船ふび旅に参さか加する機きい会を得えたろしとず届とける使しい命があり、各かじ自が相そう応の力ちを発はき揮し、活かう動しました。んそろしんがろしんがころちはいけきんいいょんたからか んたごはまょたょょなきたほまくいいそずいかに かととかいいづたばかま がんもめもばたいえなもょいばろえ んいえろきかとこょくめどっかばゃえすちぐくたつんかゃばんゅびおボートの『一〇〇人にの被ひく爆者しを地ちう球一周しうの旅たへ』という、大おことは、忘われることのできない体たん験でした。地ちう球の一いぶ部を知しることができました。そこで私わたちは、世せい界に被ひく爆者しの声こを『憲※う法九条じうの碑ひ』が建こう立されているラス・パルマス(スペイン)のヒロシマ・ナガサキ広ひば場の前まで、私わは証しん言の挨あつ拶をしました。日にん本は、憲けう法九条じうが守まられていることで平へわ和であることを述のべたように思おいます。広ひま島で被ひく爆した私わの体たん験を伝つえていく使しい命を思おう船ふび旅でもありました。ことから、私わは被ひく爆体たん験を伝つえる機きい会があれば、今いでも活かう動を続つけています。ゃくせんりゅけんぽんぽっぽなたんたきゅ地ちう球の安あい泰を願ねい、早そう急な核か廃絶の必ひう要を感かじます。このたしきゅなたいけたしうおからょうげたしろしうきゅくはいぜつつよいけきゅつどいさいけたしつど20
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