学がう校にやってきました。驚おいたことに、顔かの半はん分がひどいケ段だの上うで会かん館が開あくのを待まっていたというのです。熱ねん線を浴あ来こられるようにまでなっていたのでした。しかし、ある日ひわせてもらいました。その当とじ時の大おた畠村そう長さんがとても穏おやかで柔にわ和な人ひで、身みひとつで逃のれてきたたくさんの人ひを、ちゃんと引ひき受うけてくださった。その静しかな村むにも原げく爆の負ふ傷者が次つぎ々と運はび込こまれて、亡なくなっていきました。ひとつは、住すまわせてもらっている竹たち内という旧き 家の息むこ子さんのことです。息むこ子さんは街まの学がう校に通かわれていて、即そし死されたそうです。広※ま島第だ二中ちく学は全ぜん員即そし死だったそうです。そこのお母かさんが嘆なき悲かしまれる「やれのお、やれのお」という悲ひう痛なうめき声ごが、母おや屋から毎まん晩長ない間あ続ついたのです。恐おろしいうめく声こが、今いでも耳みの奥おに残のっています。あっちもこっちも悲ひん惨な状じ況でした。もうひとつは、同おじ会かん館に通かっていた同ど級生が、戸とま山村むのロイドでした。その同ど級生は八月が六むか日の朝あ、会かん館に行いき、石いび、爆ばう風に飛とばされ、気きつ絶したのでしょう。でも、学がう校へゅうぎつんしょ戸とま山村むにいた時と、印いう象の深ふい思おい出でが二ふつあります。そのひろしょうきょうっこうきゅうせいいかくふんちょおはけうっこゅうがんいいばいだいかうきゅうせいどろ突とん然、学がう校へ来こなくなりました。原げ爆症が出でて、髪かの毛けが抜ぬしょうしゃんば多おく、悲ひん惨な中なから逃のれられたのは奇きさ跡だったのかもしれまゅうかんぶいかっせっこけて、高こつ熱を出だして苦くしんで亡なくなられたと、後あから聞ききました。せん。姉あと同おじ学がう童疎そい開へ、二ふり人の子こどもを行いかせていたなんと八月が五いか日に二ふり人の子こどもを連つれて帰かられ、一いか家四人に即そした。私わの家いは倒たれたにもかかわらず、ぺしゃんこにならんかった。だから、やっぱり運うが良よかったのか、奇きさ跡なのか、すぐそばのお薬やし師さんが、守まってくれたのかなと思おいます。一日に違ちいで生せし死を分わけた悲かしい知しらせに、胸むが締しめ付つけられるようでした。一発ぱの原げし子爆ばん弾が、こうして多おくの幸しせな家かい庭を壊こし、命いを奪ういました。もし、あの時と、両りん親が原げく爆死ししていたら、私わは原げく爆孤こじ児だったのです。もし、あの時と、家いの下しじ敷きになり、っこつぜうねんじ近きょ所でも多おくの方かが即そし死。下しじ敷きになって焼やけ死しんだ人ひもくどんじ鶴つた田さんの家いが近きょ所にありました。鶴つた田さんのお家うは、赤あい屋やね根のハイカラなお家うで、横よ川橋に近ちいところにありました。んめ死し、一いか家全ぜつ滅と聞ききました。一いか家全ぜつ滅の人ひもいっぱいありまたしくだんばんばくしょうこがわばしんめあわょうしぜきえたきばえん んつおてわついさしおないがちね よなやらもくもさんせみまえくこもえつがづそなげあおえっっとたつつえっんくいくちかちすよくえるるちかすかなねた かきらやもたがかさおせこ くたおたとずらがととうだるとみんばのちたし19
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