世せい界に届とけ!広ひま島で被ひく爆した私わの声こたしんきょ三さう京育いよ代ら一・三キロの地ちん点で被ひく爆しました。当とじ時、私わは横よわ川橋ばのすぐそばの横よわ川一丁ち 目に住すんでいました。家かく族は五人にで、両りん親と国こん民学がう校四年ねい生の姉あ、七月が十一日にに生うまれたばかりの妹とがいました。うち広ひま島もきっと大だ空襲に見みま舞われるだろうといわれていました。玄げん関入いり口ぐには、いつでも持もち出だせるように非ひ常用袋とか防ぼう空頭ずん巾などが用よい意してありました。といって、ごはんの代かわりにお芋いとか、おかゆ、すいとん(団だご子汁じ)だったんです。なところで、手てた旗信しう号、避ひん難訓くん練、怪けが我の手てて当などを習なってょうわ昭し 和二〇(一九四五)年ね八月が六むか日、八歳さの時とに、爆ばん心地ちかこがょうめんせくみっこっぽ日にん本の都とし市のあちこちが大だ空襲でやられていました。そのろしいくうしゅうんかうく白しいご飯はが当あたり前まに食たべられない時じい代でした。代だ用食るん かんなばあらさらわきかえはかうも ちいつかねきう えんろだかいつちね ちえけえええからびるえつねちおわらんか ぞんかなどね つんいいきばてうし げかしろどかばえく っこくみ国こん民学がう校二年ねだった私わは、近ちくの集し会所とか公こ民館のようんごいくうしゅうたしゅうかいしょんれくしこがたしょうしいもうじょうようぶくろいようしょくうみんかんいました。学がう校での勉べう強などはありませんでした。も四年ねい生でしたから、遠とくの川かね根村む(現げ広ひ島県安あき芸高たた田市し)のお寺てへ集しん団疎そい開をしました。やはり、ひもじさと、シラミやノミで苦くしみ、寂さしさで耐たえきれなかったようです。「家いに帰かりたい、帰かりたい。死しんでもいいから帰かりたい」とずっと言いってました。「連つれて帰かって」と泣なき叫さんだそうです。に言いったそうです。八月が六むか日の朝あや早く、父ちは学がう童疎そい開していた姉あをうちに連つれて帰かるため、疎そい開先さの川かね根村むに出でかけたのです。母はは赤あん坊ぼの妹とを抱だっこして、近きょ所の台だろ所にいました。その日ひの朝あは、すでにB29が来きて警けい戒警けう報が出でていましたが、七時じには解かょ除っこっそんそ戦せう争が一いう層激はしくなっていく中なで、国こん民学がう校三年ねい生以いう上のやも児じう童は、親おと元を離はれて集しん団疎そい開をさせられたのです。私わの姉あんせゅうだ父ちは「八月が六むか日に迎むえに行いくから、待まってらっしゃい」と姉あさはいもういかんきょくみゅうだくどんじいどこいほっこんせじょたしろしまけんいじ16
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