原げく爆が落おちて二、三日に後ごに家いに帰かってきました。上じ級生だか寄よって、白は血球を調しべてもらいました。ある日ひ、白は血球数すが家いえ帰って寝ねときなさい」と言いわれました。家いに帰かってコトン数すはどんどん上あがって、最さう高五〇、〇〇〇まで上あがりました。頃こは治ちう療方ほう法もなく「美おい味しいものでも食たべて寝ねとけ!」と言いわれたので、毎まち日バナナを食たべていました。その後ご、少すしんばんせょうが小しく学五、六年ねい生の頃こ、原げく爆を受うけた子こどもを検けさ査するためつえ被ひく爆後ご、父ちも母はも後こ遺症はなかったですが、私わに出でましんせゅうがいしゅっけっきゅうえかうほりょいにら、泣ないたり喚わいたりできなかったので辛つかったそうです。に、比ひじ治山やのABCCに行いった記きく憶があります。中ち学校の時と『ひ※ろしま』という映えが画に生せと徒役やで出でました。軍ぐく服着きてゲートル巻まいて、撮さい影に行いきました。た。中ちく学三年ねい生の二学がき期、白※血球の数かが一〇、〇〇〇を超こえたらしいです。毎まう週月げ曜日の朝あ、学がう校に行いく前まに日にき赤病びん院に二〇、〇〇〇まで上あがっていました。「あら、これはいかんよ!と寝ねたら、それっきり半はし年起おきれんやった。その後ご、白は血球一〇〇、〇〇〇まで上あがったら助たからんとの事こでした。そのずつ下さがり始はめたものの、それでも白は血球数すは二〇、〇〇〇んばういしょうはっけっきゅうっこんといこっけっきゅうょうきゅうせい集し中力が全まく無なく、とにかく脱だ力感がすごくてね。だからゅうがっこう中ちく学の卒そ業式は欠けき席、高こう校は中ちく学の校こう長先せい生のはからいで、んぷ入にく学する事こができました。高こう校は自じ転車で通かっていました。たしょういっせっけっきゅうっけっきゅう白は血球はずっと下さがんないし、いつまたどうなるか分わからんじう めんめあまころすとめらいきもいいぶうええもるめみぜう ちっんごごっらううびよつえさこなとっずええ はちばたなたぎええいいく ろんめらまおきえちえ んとてんしゃよはなちえより下さがらなかったです。ある日ひの帰かり道み、鼻はぢ血が出でじ始めました。なかなか止とまらず、た。横よになっても、しばらくは鼻はぢ血が止とまらないという事こもありました。に転てう校しました。そこの海うの風かと空くき気でだいぶ良よくなったのかなと思おっています。大だく学は久く留米で四年ねん間過すごしました。でしょう。「自じん分は三〇歳さまで生いきられたらいいうちやな」って思おっていました。だから「三〇歳さ超こえんと結けん婚しない」とらだいに毎まち日、体かがだらしいというより、何なにもする気きがしない。ったゅうちゅうりょくっせゅうがつぎょうしきゅうが片かて手で鼻はを押おさえ、片かて手でハンドルを握にり、やっと家いに帰かり着つけました。家いに帰かったら、シャツは真まっ赤かになっていましうこ高こう校一年ねの二学がき期からは、父ちの仕しと事の都つう合で、別べぷ府の高こう校んこっけっきゅう言いっていました。嫁よさんを貰もったのは三三歳さの時とです。嫁よは戦せご後生うまれですが、嫁よのお母かさんが広ひま島の比ひじ治山やで被ひつりょくかんうこゅうがうちょうこいがんせうこんかっころし10
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