行いくことしか考かえられなかったそうです。柳やい井の駅えで西にわ川さ面めに行いく汽きゃ車があると聞きき、治ちう療を終おえた私わを連つれ、乗のり継つ日かだったと言いっていました。家いはたまたま焼やけ残のっていまし途とん端だったそうです。ドンと来きて、すぐに机つの下しに潜もり、頭あ者じさんが来きたと言いっていました。皮ひふ膚科かの医いう長をしていた父ち爆ば資し料館の映えゃ写にも、父ちが映うっているんですよ。付つか替えは傷きち口を消しく毒するために、膿うと血ちでバリバリに乾かいたと言いっていました。その後ご、西にわ川さんが柳やい井に戻もるということで、母はは付ついてんとは別われました。西にわ川さんは実じか家に帰かり、母はと私わは広ひま島方ほいで広ひま島に向むかいました。二ふば葉の里さの家いに辿たり着ついたのは八よた。う、心しい配で…。一週しん間くらい経たった時と、やっと帰かってきたんです。原げく爆が落おちた時と、父ちは日にき赤病びん院の自じん分の部へや屋に入はったをちょっと怪けが我したくらいです。一週しん間はひっきりなしに患かは、原※く爆乙おめ女を最さょ初に治ちう療したそうです。原げく爆の写し真集や原げしかんがしかろし父ちが生いきとるかどうか分わからんで、連れく絡も取とれんでしょんぱゅうかんばいしげんばいしりょうかんいに父ちは毎まち日出でが掛けに、私わの傷きち口を消しく毒してくれました。朝あの ちさ ねえっがらけみわすかっすねちくつとんゃちしでおずんいきくたたぐちきぶい ちこえきえたとえどうしんかっえはう しいばきゆたたうこずい9はづこえとち どなはえおたえたなきととじずぐょうどりょたしんらょういっせくえゅうかりょたしずぐょうどしかろしたしたま小し学校の時とに出でたガラスは小ちさかったのですが、肉にに食くい込こちょゃしんしゅうんば腕うも足あも切きらんで済すんだのは、西にわ川さんのおかげです。西にわ川ガーゼをビリーっと剥はぐんです。とっても痛いかったです。あまりの痛いさに私わが大おきな声こで泣なくので、その声こを聞きいた近きょ所の怪けが我をした人ひたちが「伊いう藤先せい生の治ちう療が始はまった」と押おしの遅ちく刻が続つきました。母はが私わに「お前まが泣なくから近きょ所の人ひがくる日ひから、痛いくても歯はを食くいしばり、泣なかなくなったとのことです。それから半は年間はいざっていました。立たてなかったです。傷きが癒いえて立たち上あがっても、右みし足に力ちが入はらなかったです。はチクチク痛いみ、小こび指の先さくらいのガラスが出でてきました。んでいて取とり出だしにくく、大おきな傷きになりました。それでもさんは、わが家やにとって命いの恩おん人なんです。たし寄よせて来きたそうです。そのために、父ちは毎まち日のように病びん院へょうい来きて、お父とさんは病びん院に行いけないでしょう」と怒おるので、あたし私わはその後ご、足あからガラスが二回か出でてきました。被ひく爆翌よん年ょうがっこうょうが六むつ上うの姉あは小しく学五年ねい生で、広ひま島郊こい外の永なせ瀬にあるお寺てに疎そい開して助たかりました。うちの一いか家はみんな助たかった。姉あはりょんせたしんとしかんぎあしかんじのちんせろしうがんじょういいにんじからくねしか
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