第26集 つたえてください あしたへ・・・・・・
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朗 読 者 朗 読 者 ころ行いく所とがないならついておいで」たしらか歩あいて、浦うみ上方ほん面へと通かいました。半はき月くらい寝ねと泊まりさせてもらった頃こ、竹たの久保町まにいた母はの弟おとが私わを訪たねてきてくれました。それからは叔おじ父とんてんせ親しき戚の家いを転てん々と、こっちに一ひん晩、こっちに二ふん晩とお世せわ話になりました。んま年ねつ末近ちくなってから、竹たの久保にバラックを建たてました。バラックとは戦せ後ご、家いを建たてる材ざう料もまだ少すなく、あるもので建たてた粗そつ末な仮かの家いです。叔おじ父の家かく族も亡なくなっていましたが、兵へい隊に行いっていた叔おじ父の息むこ子が帰かったし私わが飯め炊たきをすることになりましたが、飯めといっても芋いを蒸ふして、団だご子にたらうめたしとういりょとこたしくみっこいへんつとばいたいかうとんにゅたばつぎょちおいにそして、道みノ尾駅え近ちくの田いか舎に連つれて行いかれました。おばさんの父ちや親らしい、「梅う太郎さん」というおじいさんに、大たん変お世せわ話になりました。しかし、私わは親おの死しんだことが信しじられずに、そこの家いから毎まち日五、六キロてきたので、男お三人にで暮くらしました。したもので、ごはんの代かわりです。そんな生せつ活が続つきました。しばらくして、私わは淵ふ国こん民学がう校高こう等科かに編へう入しました。「卒そう業したら住すみ込こみで働はくところを探さそう、いつまでもお世せわ話になれない」と思おっていたか51⑯⑮がもづちししもかんんぞすえくえまりえぼくのけかんえはずちぼくのけうろためよるろんやえなかきおのち

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