第26集 つたえてください あしたへ・・・・・・
25/82

山やから下おりてきて家いの中なを見みたら、人にん間の手てでやろうとして飛とんで張はり付ついていました。それだけ爆ばう風がひどかったんで炊たき出だし等なは市しから来きて、台だろ所でやっていました。昔むは給く食もできないのに、家いの中なの畳たは全ぜぶ部まくれあがり、戸とな棚の中なのものが全すて外そに出でていました。勉べう強部べや屋の本ほでも何なでも外そに出でていました。台だろ所を見みたら、お手てだ伝いさんがお昼ひご飯はにつくったおからや野やい菜が入はった雑ぞい炊が、戸とな棚や壁かに全ぜぶ部吹ふきす。その頃こ、公こう共施しつ設がないので寺てち町街がの四、五カ所しの大おきいお寺てと小し学校が収し容所になり、次つから次つから被ひく爆者しが運はび込こまれてきました。はじめに来きた人ひは自じき力で登のってきた人ひたちばかり。うちの坂だか段を登のってきた方かはまだ体たく力があったんでしょうね。担たか架で運はばれる人ひは、その時とにはいませんでした。どんな経けい緯でうちに運はばれてきたかは分わからないです。などなかったから、大おきな台だろ所があるのはお寺てぐらいでしょう。勝かま山国こん民学がう校と新し興善国こん民学がう校が収し容所になってましたから、浦うみ上の方ほからどんどん来こられたのだと思おいます。原げく爆が十一時じ二分ふに落おとされて、私わたちが三時じ過すぎに戻もってきたいどこうきょゅうようじょょうがっこうんざっこつやくみんこうぜんらかんげたみんきょうすくふらまいどこいどこくみっこゅうようじょたしいりょきゅうしょかしんばんどうもかょんしょおら らたこどこいかとこんきもずもずぼたんうことずとりぼとし せろいょおらぎぎばゃこいさだべんつるんとべんんとかえんだかかえまろちえ えとこもんけまらんおけなかもこんとると時じ二分ふというのはね、寺ての玄げん関に大おきな時とい計があって、それ運はばれた人ひたちは畳たの上うに寝ねかされてました。亡なくなったくし役やょ所の方ほから来きましたが、担たか架で運はばれた人ひたちは水みを飲のむょくちおいげんかん一いう応、お寺ての正せ玄関、十何なう畳敷じきの板いば張りの玄げん関に運はんで、うたのだから、市しい内から来こられる時じん間はあると思おいますよ。十一が十一時じ二分ふで止とまっていました。その時とい計は今いも取とってると思おいますよ。り、連つれ帰かったり、入いれ替かわり立たち替かわりでのべ四百十何なん人と父ちから聞きいていました。本ほう堂は百う畳敷じきぐらいあって、さらに三つくらい広ひい部へや屋があって収しう容するには充じん分ですよね。そこにも担たか架のまま運はばれて来くる人ひ、歩あいてくる人ひいろいろでしたねえ。足あの踏ふみ場ばもありませんでした。賄まいは市しぐらいで食しじ事はできなかったと思おいますけどね。お水みは飲のましたらいけんって言いわれますけど、やっぱりお水みを飲のませんというわけにはいかなかったと思おいます。お医いゃ者さんと看かご護婦ふさんがいて看みていましたね。応おう急処しち置といっても赤あチンと包ほい帯するぐらいでしたが、そこで処しち置をするかどうか、見みわ分けていたみたいでしたよ。んかたみんどひゃくじょゅうよんじょんにゅうぶかなんかうきゅ23

元のページ  ../index.html#25

このブックを見る