第26集 つたえてください あしたへ・・・・・・
20/82

外そわ側だけきれいに拭ふいて、赤あチンつけて、その上うにガーゼを合あいの人ひたちを探さしに行いきました。誰だも見みつけられなく、ど折おり重かなっていたそうです。帰かってきた父ちは足あに火やど傷をして「冷つたい、痛いい」と言いう父ちに、私わは、「痛いい、痛いいって言いわんで。ちょっと待まっとって」と、赤あチンを付つけ替かえてやっていました。その頃この子こどもたちなら、みんな同おじようにするでしょうね。看かご護婦ふさんもいないし、私わも一番ば年とえ上だったから、傷きのして、周まりに包ほい帯をしてあげていました。包ほい帯もあまりないので、汚よれた包ほい帯を洗あって巻まき直なし、繰くり返かし使つっていました。こに行いってもみんな死しんでいたそうです。浦う上川には馬うとかヤギ、豚ぶ、鶏りそして人にん間も水みを飲のみに来きては、パタンと倒たれいました。その時との父ちはズボンにゲートルを巻まき、地じか下足たび袋だったと思おいます。足あと元が熱あい中な、地じか下足たび袋だったので焼やけただれたのでしょうね。その後ご、近きょ所の人ひや父ち、母は、みんなが原げく爆の後こ遺症を患わっとがうたうたくじんば原げく爆が落おちた翌よつ日、父ちは近きょ所の人ひと爆ばん心地ちあたりへ、知しりんげにわとしもんじたししうたしんじくしんば はちとくた つもかちきさちしけえまがとれ ちとずたおらごおえか ししたたがもれぼんまとらからんんずわんかえ かちつ ろなょうんるかわころねちためたたつうたらかみがわういしょうずらていました。もどしたり、熱ねが出でたり、それはそれは、色いろ々です。私わたちきょうだいは、周まりが少すし落おち着ついた頃こ、胸むのあたりがムカムカとし、やっぱり爆ばう風を吸すっていたようでした。当とじ時は原げく爆症しうだとは分わからず、祖そぼ母が「あたし、何なか悪わいもの食たべさしたかね」と言いっていました。八月が十五日に、日にん本は終しん戦を迎むえ、聞きいたことのないサイレンが鳴なりました。警けい戒警けう報のサイレンではなく、みんな何なのサイレンか分わかりませんでした。お寺てが近ちかったので、お寺てに行いったら分わかるかなと思おいましたが、誰だも分わかりませんでした。後あであれが終しん戦を知しらせるサイレンだと分わかり、子こどもながらに今いまで張はり詰つめていたものがいっぺんに抜ぬけ、みんなでワーワー泣なきました。何なで泣ないたかは分わかりませんが、そのことはしっかりと覚おえています。だったところもあります。私わの所とはサイレンでした。小し学校の校こい庭で、ずっと〝ウ〜〜〟と鳴なっていました。した。着きるものや食たべるものこそ少すなかったですが、心こが豊ゆたしんばっぽいかゅうせゅうせ終しん戦の伝つえ方かは場ばょ所場ばょ所によって違ちいました。玉ぎん音放ほう送うてうしゅゅうせ終しん戦後ごは、空くう襲から逃にげなくても良よいのでホッとしていまくふゅうせいほたしころろいょくおうそょうがっこうころ18

元のページ  ../index.html#20

このブックを見る