

西蓮寺(北九州市門司区)の僧侶。加えて、ラジオのパーソナリティーや華道家としての顔も持ち、九州と関西を中心に法話や講演活動も行っている。HPではブログで「日替わり法話」を更新中。『心の荷物をおろす 108の智慧』など、著書も多数。
vol.7 『思い癖』
最近、「思い癖」を持たれている方が多いことに気付かされます。
私の元には、毎日200通ほどの「お悩みメール」が届きます。「宅建の試験に挑戦したが、2度落ちた。もう1回トライしようと思うけど、落ちた後のことを考えると怖くて、不安な日々を送っている・・・」「何度お見合いしても断られます。このまま一生独身だと思うと、友達にも会えません・・・」「最近、物忘れをしがちです。ボケて子どもに相手にされなくなったらどうしよう・・・」。このように、「将来、こうなったらどうしよう・・・」という不安にかられて悩まれている方が、非常に多いのです。
どんなに幸せそうに生きている人でも、何らかの不安を持っています。もちろん、私も不安と背中合わせの毎日です。しかし、自分の「思い」が自らを不安にしていることに気づかねばなりません。
私は、「試験に落ちたらどうしよう・・・」という方には、「そう考える間に、1問でも覚えたらどうですか?」と答えています。「結婚できない・・・」という人には、「結婚だけが人生ですか? あなたという人生を懸命に生きる中で素敵な人と出会い、その結果として結婚に結びつけば、こんなにすばらしいことはありませんよ」と。「ボケたらどうしよう・・・」という人には、「ささいな物忘れなら気にしないこと。人はすべての情報を記憶できるわけではありません。今の年齢と向き合って生きることが、未来を開くのですよ」とお答えしています。
こうなったら、どうしよう・・・。その思いは自分の中で想像力を働かせ、いらぬ苦しみを生んでしまいます。しかし、その苦しみは「取り越し苦労」でしかありません。それよりも、あなたの「今の人生」を存分に楽しみませんか? 念仏とは、今を受け止める心のこと。仏さまは、あなたをしっかりと見ていらっしゃいます。
vol.6 『悲しみから見えてくるもの』
映画「おくりびと」の原作者・青木新門さんには、どうしても許せない叔父がいたそうです。
青木さんは富山県の旧家の跡取り息子として生まれました。いろんな仕事に手を出しますがすべて失敗。たまたま広告で見つけた葬儀社に入社することになりました。その仕事が納棺夫(遺体を納棺する仕事)だったのです。
青木さんの親類縁者は社会的地位の高い人が多かったそうです。ですから、青木さんが葬儀社へ勤めたことを知り、親戚中が猛反対したといいます。
親戚を代表して叔父が忠告に来ます。それでも青木さんが納棺夫をやめなかったため、絶交状態になりました。
しばらくしてその叔父が、癌で入院したことを知らされます。その時、青木さんは「ざまあみろ!」と思ったそうです。
しかし、母親から「危篤状態だから」と説得され、渋々見舞いに行きました。病室に入った瞬間、叔父は青木さんに気がついたそうです。その顔は、以前、青木さんに説教した、怖い叔父の顔とは打って変って、柔和な顔でした。
そして叔父は青木さんの手を握り、「ありがとう」と言ったそうです。青木さんの目から涙が落ちていきました。翌朝、叔父は亡くなられました。青木さんは葬式のとき、「叔父さん!許してください」と泣きながら焼香をしたそうです。憎しみ合っていた二人に「死」が介在することで、「ありがとう」「許してください」と和解が訪れたのですね。
本当の和解とは「相手を許す」ことではなく、「自分を許す」ことなのかもしれません。青木さんの「許してください」は、何がなんでも皆を認めさせたかった自分から、解放された瞬間でもあったのでしょう。
vol.5 『心の眼』
私は週に一度、中学校と高等学校へ通勤しています。学校の玄関では毎朝、学生の服装をチェックするために、風紀の先生が目を光らせています。
ある日先生が、学生が髪飾りをつけているところを見つけて、「なんだ、これは!」と取ろうとしました。すると、学生は「私だけじゃない! みんなもつけているのに!」と、強く言い返しました。これは、「何で私だけが注意を受けるの?みんなもつけているのに」と、損した気分になっているのですね。
ところで、この学生が言った「みんな」とは、何を指しているのでしょう。
仏教に、「あらゆる衆生」という法語が出てきます。親鸞聖人は、この「あらゆる衆生」を「われら」と言い換えられました。「われ」は、個人としての「われ(我)」です。そして「ら」は、多くの中にいても「われ」という個人は大きく存在しているということなのです。
「われら」とは、個人としての人間と、そのつながりを指しています。親鸞聖人は、「あらゆる衆生」を「われら」と訳すことで、「私一人のいのちを生きるということは、すべての人々と共同のいのちに生きることである」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。
「みんな」とはいわば、個人の共同体です。だからこそ、個人一人ひとりが自分自身を見つめ、確立した存在となることが大切になってきます。何か問題に遭遇した時、「私だけではない」と逃げるのか、そこからつながりを持ち、「私の問題」として気がつくことができるのかでは、大きな違いがあるのです。
外にあるものばかりに眼を向けるのではなく、決して肉眼では見えない、自分の内側にも眼を向けることができる、「心の眼」を持ちたいものですね。
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